Episode36 怪文書
その手紙が届いたのは、姉様の婚約披露まで、あと二十日という頃だった。
屋敷はにわかに慌ただしくなっていて、廊下ですれ違う使用人の足取りまで速くなっていた。
昼過ぎ、玄関先でセバスチャンとテレサが何か話しているのが聞こえた。声を落としているのが、かえって気になった。
「どうかしたの」
階段の途中から声をかけると、二人が同時にこちらを見た。
「エラリーお嬢様」
「何かあった?」
セバスチャンが一瞬の間を置いてから、封筒を差し出した。
「セレナお嬢様宛に」
白い封筒である。宛名はある。差出人の欄が、空白だった。
「差出人がないのね」
「はい」
差出人のない郵便は、届いた時点でセバスチャンが改める。当家の決まりだ。子爵家といえども、商いの絡む敵は少なくない。
「もう開けたの」
「たった今」
封は既に切られていた。中から出てきた紙は、一枚きり。
私はそれを広げた。
花は枯れ 実は熟れて落つ
鐘は鳴らず ただ風のみが渡る
乙女は紅の涙を流し
盗人の手に 攫われゆく
追う者はなく 探す者もなし
この家に ひとつ 欠けたるまま
それだけだった。
署名もない。用件もない。何を求めるでもなく、何を告げるでもなく。
ただ、詩が一編。
私は、紙を持つ手が震えているのに気がついた。
……これは。
これはもしや、怪文書というものではないだろうか。
差出人不明の手紙。不吉な文言。名指しされぬ予告。
物語で読んだことしかない。まさか現実にこんなものが届くとは思わなかった。いや、届いてしまったのは困る。困るのだが。
「エラリーお嬢様」
「な、なによ」
「顔が」
「顔が何よ」
「いえ。何も」
セバスチャンが目を逸らした。
私は咳払いをして、紙を裏返した。何も書かれていない。透かしてみる。上等な紙というほどでもない。どこの文具商でも手に入る類のものだ。
筆跡は整っている。急いで書いた様子はない。
……フィンがいれば。
あの妖精なら、紙の上をぺたぺたと歩き回って、変な気配がするとかしないとか、そんなことを言ったはずだ。
けれど、いない。
肩が軽いまま、私は紙を光に翳した。
「お嬢様」
「何」
「そちらへお進みになると、壁がございます」
危なかった。
* * *
その晩、お父様の書斎に家族が集まった。
お父様は紙を二度読んで、卓の上に置いた。
「セレナ。心当たりは」
「ございません」
姉様は落ち着いていた。手紙を見たときも、眉を少し動かしただけだったと聞いている。
「脅されているのなら話は別だが、これは何も言ってきていない。金を寄越せとも、婚約をやめろとも書いていない」
「では、ただの悪ふざけと」
「そう考えるのが順当だろう」
「わたくしも、そう思います」
姉様が口を開いた。
「子爵家から侯爵家へ嫁ぐのです。面白く思わない方がいらっしゃるのは、初めから分かっておりましたもの」
あっさりとしたものだった。
「そうねえ」
お母様が、のんびりと頷いた。
「わたくしが嫁いできた頃も、ずいぶん言われましたもの。伯爵家の娘が、よりにもよって、などと」
初めて聞く話だった。
「お母様が、ですか」
「ええ。金で買われたのだろう、と面と向かって仰る方もいらしたわ」
さらりと、そう言った。
「どうなさったのですか」
「聞き流しましたわ」
刺繍でもしているような調子で、続ける。
「言う方は、言うことでしか気が済まないの。……こちらが相手にすると、それが糧になってしまうのよ」
それから、少しだけ目を細めた。
「それにわたくしは、ロベルト様と一緒になりたかったのですから。周りが何と言おうとそこは変わりませんわ」
お父様が、書類から目を上げた。
「エヴェリン」
「はい」
「私も、あの時──」
「はい、そこまで」
私は手を挙げて、話を切った。
「今は、怪文書の話をしております」
「……うむ」
お父様が咳払いをして、書類に目を戻した。耳が赤い。
この二人は、放っておくと際限がない。十七年生きてきて、私が最も多く鍛えられた技能が、これである。
横でカイルが、助かったという顔をしていた。
「あらあら」
お母様は、まったく応えていない様子で、こちらに向き直った。
「エラリー」
「は、はい」
「当日、何か気になることがあっても」
「……はい」
「その顔を、なさらないこと」
「その顔、とは」
「今の顔よ」
にっこりと、そう言われた。
……そういえば、首飾りのときもそうだった。
調べていることを、顔だけで言い当てられたのだ。
お母様には、敵わない。
姉様が、小さく笑っている。
「お父様」
気を取り直して、身を乗り出した。
「この詩は、手がかりになると思います」
全員がこちらを見た。
「嫌がらせをしたいだけなら、姉様を悪く言う文でも書けばよろしいのです。そのほうが、よほど効きます」
「ふむ」
「けれど差出人は、わざわざ詩を送ってきた。自分で作ったのか、どこかにある詩なのか。もし、どこかにある詩だとしたら」
話しているうちに、口が止まらなくなってきた。
「出所を辿れば、それを読める人は限られてきます。滅多に目にしない詩なら、なおさらです。ということは、まずこの詩がどこのものかを調べて、それから筆跡と紙の──」
「エラリー」
「はい」
「また、その顔よ」
「……失礼しました」
カイルが横で小さく吹き出した。
「エラ姉様、さっき廊下でひとりごと言ってた」
「言ってないわ」
「『怪文書……怪文書だわ……』って」
「言ってないったら」
「……まあ、いい」
お父様が息を吐いた。
「筋は通っている。伝わらないものを送って何になる、というのはその通りだ」
「では」
「セバスチャン」
「はい」
「この詩に、見覚えはあるか」
「心当たりがございます。今しばらくお時間を」
* * *
調べがついたと聞いたのは、二日後の朝だった。
廊下でセバスチャンを捕まえる。
「分かったの」
「アウグスティン・リンデンベルク先々代侯爵の作かと。ずいぶんと若い頃の、寄稿集に寄せられたものでございます」
私は、その名を口の中で繰り返した。
高名な作家である。私も何冊か読んだことがある。ただし、どれも重く、静かで、こんな不吉な調子のものではなかった。
「リンデンベルクといえば……クラウス様の家名では?」
「曾祖父にあたられます」
嫁ぐ家の曾祖父が書いた詩が、嫁ぐ娘のもとに、差出人の名もなく届く。
偶然のはずがない。
「ご存命なの?」
「御年九十三におなりです。婚約披露の宴にも、おそらくは」
「……ずいぶんと詳しいのね」
「執事でございますので」
答えになっていない。
この男が古い書物に妙な伝手を持っていることは、もう何度も思い知らされている。『論証の書』のときもそうだった。訊いても、はぐらかされるだけだ。
「その寄稿集、うちにある?」
「ございません。私も、現物を見たわけではございませんので」
「……どうやって調べたの」
「人に聞きました」
それ以上は言わない。いつものことだ。
「それと、もうひとつ」
セバスチャンが、少し声を落とした。
「侯爵には、妹君がいらしたそうです。エレノア様と仰って……嫁がれた先で、若くして亡くなられたとか」
「……亡くなられた」
「涸れ病であったと」
息が、止まりかけた。
「あの詩は、その妹君を思って作られたものではないか。……そう言われているようでございます」
「言われている?」
「はい。侯爵ご自身が、そう仰ったわけではございません。あくまで、人の口に上っている話として」
なるほど、と思った。
花が枯れ、乙女が泣き、盗人の手に攫われ、家からひとつ欠ける。
……嫁いだ先で亡くなった妹君を悼んだ詩だと言われれば、たしかに、そう読める。
「侯爵ご自身は、何か仰っているの」
「その話は、なさらないそうです。一度も」
「一度も」
「はい。……ですので、どこまで本当のことか、私には判じかねます」
それきり、セバスチャンは口をつぐんだ。
私は、もう一度紙に目を落とした。
「ねえ、セバスチャン」
「はい」
「これを送った人は、それを知っていて送ったのよね」
「でございましょうな」
婚礼を控えた娘のもとに、死んだ娘のための詩を送る。
悪ふざけ、という言葉は、もう使えなかった。
* * *
その日の午後、もう一度書斎に集まった。
「リンデンベルク家の曾祖父君の作、か」
お父様が、紙を指で弾いた。
「……いよいよ、悪ふざけでは済まなくなってきたな」
「どなたが書いたものか、分かったということですよね」
お母様が、静かにそう言った。
「それで、差出人が分かるのかしら」
「いや」
お父様が首を振った。
「書いた者と、送った者は別だ。……分かったのは、差出人がこの詩を選んだ、ということだけだな」
「選んだ」
「そうだ」
お父様が、紙を卓の上に置いた。
「不吉な詩なら、他にいくらでもある。だが差出人は、よりにもよって、嫁ぎ先の曾祖父君が書いたものを選んだ」
私は、その言葉を口の中で繰り返した。
……そう。そこだ。
この詩でなければならなかった理由があるはずだと、私はずっと考えていた。
理由の半分は、これだったのだ。
「つまり、リンデンベルク家を意識しているということですね」
「そうなる」
「では、あちらの……」
お母様が言いかけて、口をつぐんだ。
「そこまでは分からん」
お父様が、あっさりと切った。
「詩を知っているだけの者なら、どこにでもいる。だが、この詩を選ぶ理由を持つ者は、そう多くない」
姉様が、静かに頷いた。
「セレナ」
「はい」
「クラウス殿には、全部伝えなさい。詩のことも、調べのことも」
「かしこまりました」
「向こうの家の話だ。こちらが勝手に嗅ぎ回るより、あの方に動いてもらったほうが早い」
お父様が、紙を折り畳んだ。
「ただし、こちらから騒ぎ立てはしない。動けば人が知る。人が知れば話が広まる」
「では、放っておくと」
「放っておくのではない。備えておくということだ」
お父様が、顔を上げた。
「当日、何かあればすぐに知らせなさい」
「はい」
「かしこまりました」
それで、その晩の話は終わった。
* * *
それからの日々は、拍子抜けするほど普段通りだった。
お母様は当日の装いをあれこれ思案し、カイルが家庭教師に叱られ、ルーシーが焼き菓子を焦がした。姉様は行儀見習いと支度に追われ、お父様は商いに追われていた。
誰も、あの詩の話をしなかった。
クラウス様からは、承知した、あちらでも気を配る、という返事が来たきりだった。
そして私は、机の抽斗を何度か開けた。
中には、銀の縁の眼鏡が入っている。
何も起きなければ、これを掛けることもない。姉様のことなのだから、何も起きないほうがいい。
そう自分に言い聞かせて、抽斗を閉じた。
……閉じて、その日のうちに、また開けた。
* * *
当日、セレナ姉様は前日のうちにリンデンベルク家へ入っていた。当日の支度は向こうで整えることになっていたから、朝に一緒に発つわけにもいかない。
馬車の中で、カイルはずっと窓の外を見ていた。
「緊張してるの」
「してないよ」
「してるじゃない」
「エラ姉様こそ」
カイルが振り返る。十四になって、背だけは伸びた。学院の夏季休暇で帰省中だから、こういう席にも顔を出せる。
「侯爵家だよ。粗相のないようにしないと」
「大丈夫よ。あなたは黙っていれば上等な子に見えるから」
「それ褒めてる?」
「褒めているわ」
お父様は腕を組んで目を閉じていた。眠っているのではない。お父様は考え事をするとき、いつもこうなる。
お母様は、窓の外を見ていた。
何か言うでもなく、ただ静かに。
「お母様?」
「……セレナが、婚約だなんてね」
窓のほうを向いたまま、そう零した。
「あんなに小さかったのに」
お父様が、目を閉じたまま腕を伸ばして、お母様の肩を抱き寄せた。
何も言わない。
お母様も、何も言わなかった。
カイルと、顔を見合わせる。
……今日くらいは、黙っていよう。
私は膝の上の鞄に手を置いた。
中には、あの詩の写しが入っている。
そして、眼鏡も。
ふと、肩に目をやった。
……今日は、助手がいない。




