Episode35 眼鏡と、旅立つ助手
「エラリーお嬢様」
扉を叩く音とともに、セバスチャンの声がした。
「入って」
書物から顔を上げると、入ってきた彼の手に、小さな箱があった。
「これを、お納めいただきたく」
差し出された箱を開けて、私は動きを止めた。
眼鏡だった。
銀の細い縁で、つるの付け根に控えめな彫りが入っている。手に取ると、思いのほか軽い。
「度は入っておりません」
「……セバスチャン」
「はい」
「わたくしが自分で拵えたもの、あったでしょう」
「はて?」
「針金を曲げただけの、あれよ。いつの間にか無くなっていたの」
「存じません」
この男は、こういう顔をするときに限って嘘をつく。
あれは我ながら不格好だった。硝子など入っていない、ただ針金を丸く曲げて耳に掛かるようにしただけのものだ。歪んでいて、掛けると片方に傾いた。
それでも、あれを掛けると頭の中が少しだけ静かになるような気がしたのだ。
「職人に誂えさせました。お使いになるかどうかは、お嬢様のご随意に」
「……どうして」
「せめて、みすぼらしくないものをお持ちいただきたく存じます」
私は眼鏡を手の中で裏返した。
軽い。縁の細工も控えめで、けれど手を抜いた仕事ではない。
硝子が入っている。度は入っていないのに、わざわざ磨いたものを嵌めてある。だから、傍目には普通の眼鏡にしか見えない。
針金を曲げただけのあれとは、比べるのも失礼な品だ。
掛けてみた。
鏡台の前まで歩いて、覗き込む。
……いい。
実によろしい。硝子越しに見える自分の顔が、三割ほど賢そうに見える。いや、五割かもしれない。
探偵というのは、こうでなくてはいけない。
顎を引いてみる。少し横を向いてみる。指で縁を押し上げてみる。
前世で読んだ物語の探偵たちは、みな眼鏡を掛けていた気がする。掛けていなかった者もいた気もするが、それは些細なことだ。
「似合ってるじゃん」
肩の上で、フィンが言った。
「でしょう」
鏡の中の自分に向かって、低い声を出してみる。
「……犯人は、あなたです」
「お気に召しましたでしょうか」
心臓が止まるかと思った。
振り返ると、セバスチャンが元の場所に立っていた。
出ていっていない。一歩も動いていない。
「い、いつから」
「初めからでございます」
初めから。
つまり、全部。
……眼鏡を掛けて、鏡の前で見得を切って、何もないところに向かって話をしていたところまで、全部。
「……べ、別に。掛けてみただけよ」
「左様でございますか」
顔から火が出そうだった。
「下がってちょうだい」
「かしこまりました」
一礼して、セバスチャンが出ていく。
扉が閉まる寸前、その口元がわずかに動いたように見えたのは、きっと気のせいだ。
「なあ、あの執事」
フィンが、扉のほうを見ながら言った。
「気配消すの、うますぎない? 俺、途中から本気で忘れてたんだけど」
「……わたしもよ」
* * *
フィンが妙なことを言い出したのは、それからしばらくしてからのことだった。
「なあ、僕、あいつについてってもいい?」
夕暮れの窓辺で、唐突にそう切り出された。
「あいつって、バルナバスさん?」
「うん」
正直に言えば、あまり驚かなかった。
「どうして」
「……うまく言えないんだけどさ」
フィンは、珍しく言葉を選んでいた。
「あいつの傍にいるとさ、腹いっぱいって感じがするんだ」
「お腹が?」
「腹は減らないよ、僕ら。……そうじゃなくて」
羽をゆっくり動かしながら、宙で一度、回った。
「なんて言えばいいのかな。ずっと薄い水を飲んでたのが、急に濃いのが出てきた、みたいな。それで初めて、今まで薄かったんだって気づいた」
私は、黙って聞いていた。
薄い。
バルナバスさんの言葉を思い出す。粘土のような密度だったものが、今は砂粒しか残っていない。
「それに、あいつの傍にいるとき、たまに変な感じがするんだ」
フィンは、自分の手のひらを見ていた。
「なんか、思い出しそうになる。何を思い出すのかは、分かんないんだけど」
妙なことを言う、と思った。
思い出すも何も、この妖精は最初から、窓枠に座って小麦粉まみれの部屋を笑っていた。それより前のことなど、私は何も知らない。
……そういえば。
フィンがどこから来たのか、一度も聞いたことがなかった。
「フィン、あなた──」
「それに、あいつ放っとくとまた行き倒れるぞ」
「……それは、そうね」
「王様に殺されるかもしれないんだろ。守るって言ったし」
「どうやって」
思わず、そう聞き返していた。
「え」
「だって、あなたの声はバルナバスさんに届かないでしょう。危ないと思っても、伝えられないじゃない」
フィンが、口を開けたまま固まった。
……考えていなかったらしい。
「……うるさいな」
ぷいと横を向く。
「戻ってくればいいだろ。何かあったら、ここに戻ってきてエラリーに言う。そしたらエラリーがなんとかする」
「わたしが」
「エラリー、そういうの得意じゃん」
得意ではない。得意ではないが、まあ、そうなるのだろう。
「……分かったわ」
「だろ」
なぜか、この妖精のほうが得意げだった。
私は少し考えて、頷いた。
「じゃあ、ひとつお願いしてもいい?」
「何を」
「あの薬が、本当に本物なのかどうか。……フィンなら、分かる?」
「分かると思うよ」
フィンは、あっさりそう答えた。
「あの首飾りの時だって、気配で分かったじゃん。マナが入ってるかどうかくらいなら、見りゃ分かる」
「見るだけで」
「触ればもっと分かる。……たぶん、あいつの持ってる機械よりは確かだと思うけどな」
ずいぶんな自信だった。
けれど、思い返せば。
庭に埋められた首飾りを掘り当てたのも、カイルの部屋に残った気配を嗅ぎつけたのも、この妖精だった。お茶会に現れた偽のローウェンさんを、顔も見分けがつかないうちに別人だと言い切ったのも。
お父様を巻き込んでしまった。ベルナード家の金が動いている。
けれど、成分だの数値だのと言われても、私には確かめようがない。人を送り込めば、それこそ怪しまれる。
「……お願い」
「任せとけって」
* * *
出立の朝は、あっけないものだった。
バルナバスさんが馬車に乗り込む。荷物は、思っていたより少ない。二十年分の記録が、あの木箱ひとつに収まっているのだという。
「世話になったな、お嬢ちゃん」
「お気をつけて」
「なに、死にゃしねぇよ」
その肩の上に、フィンがちょこんと座っていた。
もちろん、本人には見えていない。
「じゃあな、エラリー」
「うん」
「留守番、ちゃんとしとけよ」
「どっちが留守番か分からないわ」
「エラリーは、まあ大丈夫だろ」
「なによそれ」
「丈夫そうだし」
「……薄情なんだから!」
フィンが、けらけらと笑った。
馬車の扉が閉まる。車輪が回り始める。
窓の向こうで、フィンが小さく手を振ったのが見えた気がした。
それから、遠くなって、見えなくなった。
* * *
その日から、部屋が少し静かになった。
妙なものだ。フィンは重さもなければ、足音もしない。いてもいなくても、部屋の空気が変わるわけでもない。
それなのに、静かだった。
三日目の夜、髪を梳かしてもらいながら、マリアがふと言った。
「エラリーお嬢様」
「なに」
「最近、独り言が減りましたね」
手が止まった。
「……そう?」
「ええ。以前は、よくひとりで何やら言い合いをしていらっしゃいましたので」
マリアは、鏡越しにこちらを見ている。
「静かなのも、悪くはございませんが」
そこで一度、言葉を切った。
「……お寂しくは、ございませんか」
この侍女は、見えないものを信じているわけではない。半分も信じていないと思う。
それでも、いなくなったことには気づいている。
「……別に」
「左様でございますか」
それ以上は、何も言わなかった。
櫛が、ゆっくりと髪を滑っていく。
私は鏡の中の自分を見た。
肩の上には、何も乗っていない。




