閑話 エリーゼのいない明日
その日もリゼットはユリのもとを訪れていた。
「またお母様に、何も言ってもらえなかったの」
膝の上のエリーゼを、ぎゅっと抱きしめながらそう零す。
「頑張っているの。淑女としてのたしなみも、お勉強も……全部、お母様に認めてもらいたくて。なのに、どうすればいいのか分からないの」
「そうか」
ユリは本のページをめくりながら、静かにそう応じた。
「お母様に、認めてもらいたいの。……でも、どうしたら、いいのか、分からなくて」
「認めてもらう、か」
ユリは少し考えるような間を置いた。
「リゼットは、頑張り屋だな」
「でも、それじゃあ駄目みたいなの」
「駄目なんじゃないよ」
穏やかな声だった。
「ただ、向けるべき場所を間違えているだけだと思う」
「向ける、場所?」
「親からの愛情というのは、望んで得られるものじゃない。……向こうにその気がなければ、どれだけ自分をすり減らしても、砂に水を撒くのと同じだよ」
淡々とした言葉に、リゼットは息を呑む。
「他に、リゼットを正しく見つめてくれる人を探せばいい。そう、運命の相手というやつだ。今の家族に固執する必要はない」
その言葉はまるで魔法のように胸にすとんと落ちてきた。
……そうか。
お母様に認めてもらう必要はないのか。
わたくしをちゃんと見てくれる人を、探せばいいだけなんだ。
そう思うと、急に心が軽くなった気がした。
これまでずっと胸につかえていたものが、すっと軽くなっていく。
「わたくし、探しますわ」
「ああ」
ユリは、静かに頷いた。
「焦らなくていい。……ゆっくり探せばいい」
その声は優しかった。
リゼットのことを、心から案じてくれているようだった。
「これ、良かったら」
ユリは、本棚から一冊の本を取り出して、差し出してきた。
表紙には、美しい令嬢と王子が描かれている。
「運命の相手を探す、恋物語だ。参考にしたらいい」
受け取って、表紙を眺める。
美しい挿絵の中で、主人公の令嬢が王子様と見つめ合っていた。
「読んでみますわ」
「気に入ったら、また貸してあげるよ」
ユリはそう言うと、静かに微笑んだ。
リゼットはその日から、その本を聖書のように繰り返し読み耽った。ページをめくるたび、見知らぬ誰かが自分を愛してくれる未来に胸を躍らせた。そして彼女は、出会う殿方すべてに、淡い期待を寄せて声をかけるようになった。
ガレス様。
アステールさん。
ランドール様。
……この人かしら。
そう思うたび、胸を高鳴らせてアプローチを重ねた。
でも、しばらくすると、なぜかもっと素敵な方が、目の前に現れるのだった。
「もっと、いい方が見つかりましたの」
「そうか」
ユリはいつも静かにそう応じた。
「今度こそ、運命の人かもしれないな」
穏やかに、そう続ける。
その言葉に、また心が浮き立つ。
……今度こそ本当の運命の人。
そう思うたび心を弾ませて、また新しい相手にアプローチを重ねていった。
でもガレス様の一件で、すべてが変わってしまった。
エリーゼは壊されてしまった。
……エリーゼが、いない。
その事実が、じわじわとリゼットの中に染み込んでくる。
これまで、当たり前のようにそばにいてくれた。
話を聞いてもらって、寂しい夜も耐えられた。
なのに、もういない。
屋敷の裏庭、小さな花壇の隅に、エリーゼの欠片たちを、そっと埋めた。
土をかける手が、震えていた。
「今まで、ありがとう」
小さくそう呟く。
涙が、後から後から溢れてきた。
しばらく、その場に座り込んでいた。
……エリーゼが、いなくなって、初めて分かったことがあった。
わたくしは、ずっとエリーゼに話を聞いてもらうことで、自分を保っていた。
でも、それは本当は寂しさを誤魔化していただけだったのかもしれない。
お母様に認めてもらいたかった。
でも認めてもらえなかった。
だから他の誰かに認めてもらおうとした。
運命の人、という都合のいい言葉に縋っていた。
……でも、それも、結局同じことだったんじゃないかしら。
誰かに認めてもらうことでしか、自分の価値を感じられなかった。
そのことに、今更ながら、気づいてしまった。
お母様の体調が優れなかったのも、お父様とお祖母様がそれを責め立て続けたのも。
夫婦仲が上手くいかなかったのも。
全部わたくしが女として生まれたから――そう思い込んで、ずっと自分を責めてきた。
でも考えてみれば、どれもわたくしが選んだことでも、望んだことでもない。
生まれた時から既に決められていた不公平だった。
そのことに、ようやく気づけただけだった。
……あの時、エラリー様はお母様にはっきりと意見してくれた。
お母様は、ずっと絶対的な存在だと思っていた。
意見するなんて、考えたこともなかった。
でも、エラリー様が意見しているのを見て、初めて気づいた。
お母様も、ただの人間なんだ。
間違うこともあれば、意見されることも、ある。
……そう気づいた時、ふと思った。
わたくしに興味がない人に、無理に認めてもらおうとしなくても……。
わたくしが、わたくし自身を認めてあげれば、それで十分なのかもしれない。
誰かに「頑張ったね」と認めてもらいたくて、ずっと必死だったけれど。
……自分自身に「よく頑張ったね」って言ってあげたらいいんだ。
そう思うと、長い間、胸につかえていたものが、すっと軽くなった気がした。
……エラリー様に、会いに行こう。
ふと、そんな気持ちが湧き上がってきた。
あの時、身を挺して庇ってくれた。
つい最近知り合ったばかりの、わたくしのために、あんな風に飛び出してきてくれる人がいるなんて思ってもみなかった。
そばにいれば、わたくしも、あんな風になれるかもしれない。
そう思うと、いつの間にか頬が緩んでいた。
「……今度は、わたくしがお返ししなくては」
そう呟くと、胸が少しだけ弾んだ。
エラリー様のお好きなものは何かしら。
お菓子? 本? お花?
お好きな色は? ご趣味は?
休日は何をなさっているのかしら。
……まずは全部調べましょう。
こうしてリゼットの"新しい運命"は、少しだけ方向性を間違えたまま、静かに動き始めた。




