閑話 リイナの決心
その日、家に見知らぬ紳士が訪ねてきた。
品のいい身なりの、初老の男の人だった。
「突然のご訪問、失礼いたします。私、とある方のご紹介で参りました」
母は、明らかに警戒していた。
居間の隅で、リアムとノアが、不安そうにこちらを見ていた。
「どちら様の、ご紹介でしょうか」
「詳しいことは申し上げられませんが……ある貴族のお家の方から、こちらのご事情を伺いまして」
貴族。
その一言で、なんとなく、思い当たる人がいた。
母も、同じことを考えたのかもしれない。少しだけ、表情が緩んだ。
「……もしかして」
「私からは、それ以上は……」
紳士は、それだけ言って、静かに微笑んだ。
その微笑みだけで、なぜか、信じてもいいような気がしてしまった。
母は、リアムとノアの方を振り返った。
「二人とも、少し向こうに行っていてちょうだい。大事なお話があるから」
リアムは素直に頷いて、ノアの手を引いて、部屋を出ていった。
母は、少し戸惑いながらも、狭い居間に紳士を招き入れた。
継ぎ接ぎだらけの椅子と、傾いた古い机。
そこに座る紳士の佇まいは、あまりにも、この部屋には不釣り合いだった。
品のいい仕草で椅子に腰を下ろす様子は、まるで、貴族の屋敷の応接間にでもいるかのようだった。
「不躾ですが、借用証を、拝見してもよろしいでしょうか」
母は、一瞬、躊躇うように紳士を見つめた。
「……なぜ、そのようなものを?」
「先ほども申し上げた通り、こちらのご事情を伺った上で、お力になれることがあればと思いまして」
紳士は、静かにそう答えた。
母は、しばらく迷っていたが、やがて意を決したように立ち上がり、奥の棚を探り始めた。
引き出しの奥から、古びた木箱を取り出す。
蓋を開け、中の書類を一枚ずつ確認しながら、目当てのものを探していた。
「……あった」
しばらくして、母は、一枚の古い証書を取り出した。
「これです」
母が差し出すと、紳士は丁寧に確認していった。
「……これは、随分と古い契約ですね。当時の利率のままになっているようですが、今の法定利率とは、だいぶ差がございます」
「え……?」
「今の基準に照らせば、この契約は——正直に申し上げて、違法な水準です。救済所という機関がございます。こういった古い契約を調べ直し、正しい額に改めてくれるところです。私の方から、話を通しておきましょう」
「そんなことまで、していただけるんですか……」
母の声が、震えていた。
「正規の額に改めれば、返済は半分以下で済むはずです」
紳士は、そこで一度、言葉を切った。
母の顔に、安堵の色が浮かぶ。
「それと——もう一つ、ご相談したいことが」
「……はい」
母が、居住まいを正した。
「いえ、そう畏まらずとも。悪い話ではございませんので」
紳士は、もう一枚の紙を差し出した。
「遠方の農家ですが、信頼できる方をご紹介できます。私も、直接お会いしましたが、実直な青年でした」
母は、紙を受け取りながら、黙って耳を傾けていた。
「もしよろしければ、お嬢さんとのご縁を、進めさせていただければと思うのですが」
母の手が、かすかに震えた。
「それに、母君や弟さん方にも、同じ土地で働き口をご用意できます。ご家族皆様で、環境を変えられるかと」
縁談。
自分に、そんな話が来るなんて、思ってもみなかった。
驚きよりも先に、不思議と、諦めに似た感情が浮かんだ。
きっと、断れる話じゃない。
でも、それでいいと、どこかで思っている自分もいた。
そこから先の話は、正直、よく覚えていない。
数日後、母のもとに、救済所からの知らせが届いた。
利率の見直しが認められ、正式に契約が改められたこと。
返済額が、半分以下になったこと。
気づけば、母は泣いていた。
悲しくて泣いているのではないことは、すぐに分かった。
「本当に、良かった……」
母は、何度もそう繰り返しながら、借用証の写しを胸に抱きしめていた。
そして——縁談の話も、正式に決まった。
相手は、遠方の町で農家を営む家の息子だという。
大きくはないけれど、堅実にやっている家で、食べるものに困ることはないだろう、と聞かされた。
断れる話でないことは、分かっていた。
貴族の方からのご紹介で、しかもこれだけ良くしてもらった後に、断るなんて選択肢はなかった。
それでも——不思議と、嫌だとは思わなかった。
会ったこともない相手だけど、話を聞く限り、悪い人ではなさそうだった。
何より、弟たちがひもじい思いをしなくて済む。
それだけで、十分だった。
ふと、この1、2ヶ月のことを思い出す。
弟が荷車に轢かれそうになったあの日、助けてくれた男の子。
出会ったばかりの頃は、まさか貴族の子だなんて、思いもしなかった。
でも、一緒に過ごすうちに、少しずつ気づいていった。
質素な身なりのつもりだったんだろうけど、生地も靴も、育ちの良さを隠しきれていなかった。
時々こっそり届けてくれる野菜も、平民街の市場では見かけないような、艶々とした立派なものばかりで——貴族の屋敷でしか手に入らないような品を、分けてくれていたんだと思う。
気づいていて、気づかないふりをしていた。
短い間だったけど、大切な時間だったと思う。
弟たちも、あの子が来るのを、いつも楽しみにしていた。
でも、それも、もう終わったことだ。
「リイナ、本当にいいのね?」
母に聞かれて、私は顔を上げた。
「うん。いいの」
母は、少しの間、私の顔をじっと見ていた。
何か言いたそうで、でも、結局何も言わずに、小さく頷いた。
その表情には、安堵と、ほんの少しの複雑さが、両方滲んでいるように見えた。
きっと母も、分かっているんだと思う。
貴族の男の子との、短い日々のことも。
それでも、これでいいんだと、自分に言い聞かせているようだった。
弟たちが飢えずに済む。私も、ちゃんとした家に嫁げる。
それ以上を望むのは、贅沢なことだ。
新しい生活の中で、ちゃんと前を向いて歩いていこう。
弟たちのためにも、自分自身のためにも。
新しい生活が始まれば、この街に戻ることは、もうないんだろう。
あの子と会うことは、きっともうない。
でもこれでいいんだ。




