偶然の必然性を理解しないから、人生も世界も混乱するのです。
あらためて、科学と哲学、そして形而上学を俯瞰してみます。
そして、形而上学へいったん到達した後の人生というのは、
自らが(無意識に)設計したゲームをプレイすること…。
その設計思想を無意識から意識化するだけの過程なのだと、
理解してみると、面白いかと思うのです。
無意識の意識化というのは、ゲームマニュアルには載ってませんが、
人生の王道です。
ある意味、ゲームのソースコードを読むのに近いです。
(それでふるまい方の全てがオールマイティになるわけではないですけど)
そういう人生を作者視点と表現してみましょう。
科学に囚われている人を、哲学の観点から視野を広げてもらう方法として、こんなレトリックを考えてみました。私の科学者に対する性格への偏見が出てて、少し嫌ですね。(バリバリの科学者は外罰的ゆえに、性悪説という偏見ですw)。
もう少しマイルドに表現を変えてみれば、科学と哲学の違いを明確に示してあげることができるのではないでしょうか? 友人等を説得するときなどに、使ってみてください。
科学の愛好家の中には科学の価値を自慢げに言うことがある。
1.観察できる対象を持つ
2.客観性がある
3.仮説は検証に晒される
4.理論は改善し得る
これだけ述べることができるなら、科学者としては立派な方なのだろうが、哲学としては救いようがないくらい失格である。懐疑的な哲学ならこう修正する。
1.観察こそ信仰である(純粋理性批判)
2.客観こそ幻想である(現象学)
3.仮説はいくら検証しても仮説のままである(プラグマティズム)
4.仮説を土台にした理論とは妄想である(論理学)
さあ、科学者諸君? 反論してみてくれたまえ?
ちなみに形而上学なら、
1.信仰だけが存在である
2.主客分離はなく、観だけがある
3.主客がなければ説は不要である
4.理論とは納得である(表現自在)
みたいな感じになる。カントやフッサールは優しいから科学者のそんな絶望を、少しは汲んでくれるよ? 絶望する人は本当に科学を愛している人で、聞かなかったふりをするのは科学を利用しているだけだろうね。
絶望の科学者よ? 君が愛したのは科学なのか? それとも宇宙なのか?
科学は外、哲学は内、形而上学は一致の地点です。外とか内とか、境界も幻想ですが、わかりやすくイメージするなら身体という認識の境界でもいいかもです。
なお、余談ですが、
救世主たちが持ちうる世界平和への希求とかの使命感については、科学かもしれません。いったん、救世主たちは世界を一回完全理解し、全てを無化した上でゲームを設計しているので、誤謬の混じる余地の少ない、また与えられた状況を最大限に活用もできる優れたゲームになりえます。意義深い、楽しそうと心から感じるなら、自分を最大限活かして、没入してこそ真価を発揮するでしょうね。
なお、科学もまたゲームです。超弦理論はかなり思惟に依存した体系で最小限の認識しか前提としないがゆえに、誤謬が少ないはずです。量子力学と一般相対性理論の統合と言われてますが、そう考えても知識が接続できるだけで、量子力学の一般的な理念とは一致しません。(量子力学の解釈のあり方は多様で一つのイデオロギー論争です)。なお、もう一方の一般相対性理論は純粋思惟に近く、実に形而上学的ですが、そういう理論理解に必要なのは知性ではなく人格です(とアインシュタイン自身が述べております)。
人格を構成する尊厳がわかると、科学も納得となります。尊厳がわからない人の科学は知識なのです。具体的な例として量子力学を尊厳で理解・解釈すると科学も偶然や確率の意義が明確になり、世界運営も健全化しますが、理解せずに使用だけに限定して使用しているので、偶然や確率の意義が理解できず、そこに振り回されて事故に遭うのです。事故としか解釈できないのです。事故というのは、偶然なんかではなく必然です。
実際に観察に依存するほど、理論は誤謬が多くなる。知識を細密に展開するほど理論は妄想=文學になる。暴論ですかね。しかし、すぐれて誤謬の少ない、世界設定が完璧な文學からすれば、事故は理由があって起きるのはわかりますよね? つまり必然です。ご都合主義によって開示される意味や意義があるなら、その文學は優秀なのです。
なお、文學なので、おもしろそーとマーケットを支配すると、影響力を獲得しますが、科学文明も要はそういう話ですね。そう理解しておくと、本当に没入したいゲームに没入できるかもしれません。人間として生きるにあたって、アイデンティティの基礎である自尊と信用を獲得するには、一貫性が必要になりますが、信用無視のゲームもあるわけですね。普通は、自尊は無視したくないでしょうから、ゲーム(一貫性の根拠)を選択できるよって、伝えてあげるのは救済になるでしょう。
究極、人生は文學なのです。だから、本質的には何でもありなのです。でも、自尊と信用とともにありたいと、人間として健全に願うならば、一貫性を時代背景(日本人としてある「私」の偶然=必然)に接続するのは、わりとコストパフォーマンスの高い生き方だとは思います。日本人として、世界平和のためにどういう貢献ができるかというゲームは至る所で展開されているのにも気が付くことはできるでしょう。(世界には貢献するのであって、世界を屈服させるのではないのです。そんなのを目指したら、まず信用が崩壊し、足元をすくわれて失敗して自尊も損なうでしょう。とことん一貫性のゲームをすべきなのです。)
性悪説を少し私は愚かだと思っています。
科学者に対して、私がマウントをついつい取りたくなるのは、
この性悪説に非常に感情的に反応するからです。
世界平和ゲームをやってるときに、
性悪説の管理主義ほどうざいものはないのです。
性善説なら、管理なんて必要ないし、
人を疑うことすら、あほらしいことなのであり、
そうならないと世界は平和になんてなりません。
この点に関しては、次のストーリーで書きましょう。




