『老子』は老人の書ではないですが、賢き老人になれる書ではあるのです。
性善説と性悪説という分類は認めない人も多いですが、
かなり際立って存在すると思います。
性悪説の人は徳の効果を理解できませんし、
性善説の人には本質的に法は必要ありません。
性悪説によって世界は混乱して課題に満ち、
性善説によってそのカオスを秩序化するというのが、
地球の根源的な運動です。
破壊原理による文明化となっているのが、
現代社会の闇でしょうね。
一見、発達して文明化されているために、
破壊に気が付かないという怖さがあります。
性善説人間は性悪説人間に管理されることで、性悪説人間という存在を知ることで人間を信じられなくなる。それが一般化されることにおいて、表層的な世界で性善説人間の割合が著しく低下してしまう。性悪説人間は管理してないと何をやらかすかわからないので、管理コストがやたらとかかるわけだが、性善説人間は放っておいても人を挫くことなんて思いもしない。
管理なんてのは官吏の仕事だが、要は性悪説人間ほど、こてこての法治国家では強者になるのだ。それでもまだ、法治国家において司法が機能しているなら管理は公正だが、性悪説人間がやるのは、(刑を)免れて恥なしという行為だ。そういった孔子が述べるような力学が全く理解できない。それは毒されていない性善説人間からしたら、その性根がかわいそうになるレベルである。いつ気が休まるときがあるんだろう? 他人が持ち上げてくれないと満足できないのだろうか?、周りからはいつも脅威しか感じとれないのだろうか? と両者を比較できる観点からならそう表現するだろう。
性善説人間は握手やボディタッチで親密さを演出する必要はない。信じているのは相手の心であるから、それは雰囲気で感じ取れるものなのである。この雰囲気とか心の仕組みがわからない人たちが、性悪説人間なのである。親密な雰囲気がわかれば、人間同士のつながりは信じられるものであり、いちいちそれを証明して回る必要はない。この違いは、性善説人間は内容まで透視する能力を持っており、性悪説人間は形でしか判断できないということだと分析・定式化できる。
外罰的な責任を重視するのは性悪説人間だし、自由責任システムを実感しているのが性善説人間だ。別に性善説人間は損をするから自由責任システムに従うのではなくて、本質的に善なのだ。悪からスタートして善性を説明する機構の一つが自由責任システムだというだけだ。善なる人間は言われずとも善であるからこそ善なのだ。自分と同列の他者を感じ取るから善なのだ。つまり自由責任システムは身体の外にあるのではなく、内側に組み込まれた本能的なシステムなのである。
性悪説人間は優劣の世界に生きており、自分は優れている必要があると思うから、それを形として証明し賞賛させなくては気がすまない。そういう思い込みの星の下に生まれているとはいえ、もっといろんな心理機能を使って、生れ落ちた宿命から運命を選び取って、優劣なき世界である愛を知るべく性悪説人間は個性化の過程を歩むべきなのだ。社会システムが性善説を基に作られれば、性悪説人間はもっと効果的に、本当に自分のためになる教育の恩恵に浴することができるだろう。
要するに現代は教育からして性悪説なのだ。管理をやめ、知識を偏重せず、説明と同意の原則を守れば、今のような教育はあり得ない。管理が必要になるような人間にこそ、実践的な善性の理解へ到達する教育が必要である。知識ではなく、こころに対する洞察力こそ養うべきなのだ。生活が逼迫しなくても性悪説人間は常に緊張している。性善説人間にまでその実感を押し付けるな、と言いたいところだ。(性悪説人間が様々な困難な問題を引き起こすからこそ、人生には多くの課題が湧いて、その分、苦しくとも人生の意味は豊かになる効果はある。)
性善説人間が常に自然の美味しい酸素を爽やかに取り込むような安らぎにあるとすれば、性悪説人間の在り方は、人工的環境の中で濃度調整された酸素しか得られない状態に似ているだろう。おいしい空気をそもそも知らないし、それで調整された酸素を生きているわけなので、おいしい空気を求める動機すら持ちようがない。見えない豊かさを知らず、見える範囲の所有を求めるのが性悪説人間なのである。
性悪説人間は性善説人間をわざわざ教育なんてする必要がないことを知るべきなのだ。性善説人間が生まれついてわかっていることを、わかってないのは性悪説人間の方なのだ。放っておいても性善説人間は他者を本質的に安らいでもらうことにこそ価値を見出すから、ちゃんと自発的に勉強し、意味のある仕事をするし、管理しなくても犯罪など起こさないのだ。それを無理に性悪説人間の枠に押し込めれば、間違った知識に苦しみ、意味のない仕事に病むし、管理に窒息して暴発するなど、逆効果になるに決まってるのだ。生まれとして貴重な性善説人間の安らいでる姿をもっと評価すべきだろう。
そもそもが、性悪説、性善説という言い方は極端な分け方ではあるのだけど、そこははっきりさせた方がいいと感じる。ここまで述べたように性悪説から性善説へは「進化」出来るのだというのは、大きな理解になる。逆は「退行」だ。今の世界は本当にこの退行が人類の危機にまでなっていることに気が付かねばならない。進化、退行がプロセスである以上、性善説と性悪説には明確な境界はなく、成分的なバランスであるとも言える。
性善説を基礎に展開された思想としては、Chinaでは『論語』が起源にして愁眉だろう。私自身、『論語』の記述によって性善説(≒徳治主義)と性悪説(≒法治主義)を両極としている。そして、性悪説では『韓非子』が素晴らしい。個人的には、マキアヴェッリとかその思想を体現したようなチェーザレ・ボルジアとかもかっこいいとは思う。身近にいたら絶対に逆らって死刑になるし、あの手の征服欲に共感はできないけど、意志力の強さは崇高だと思う。(ベクトルで言えば、向きは評価しないが長さは感嘆するということだ。)
基本的には性悪説は人間を育てない。動物として生き延びるのに特化する。だから、進化の方向は性善説が上位なのだが、なぜ『韓非子』や『君主論』も評価できるかと言えば、法律は厳密に機能するのであれば公正さという大事なことを学べるからである。
さらに性善説と性悪説を止揚、統合してしまうと、Chinaでは『老子』とか『荘子』になる。『論語』も十分、そういう読み方はできると思うが、弁証法的な論理としては『老子』になる。
グローバル化して人々の基準とする価値観がばらばらになってしまうと、互いに信用するという行為自体が困難になる。性善説と性悪説も大きな価値観の違いだが、それを次元上昇して統合できるのは『老子』の語るような「自然」への理解だと思われる。だからこそ、真の宇宙の理解を人類世界の常識レベルにしてしまうと、互いに恐怖を排除でき、防御が必要なくなり、理解(傾聴)と主張(表現)の双方向コミュニケーションが実現する。
今の世界は性悪説に傾きすぎていて、性善説人間まで性悪説人間の横暴のせいで、人を信じられなくなるために、どんどん人間としての精神性が劣化することになる。さらにその上に、法が恣意的に運用されるために、十分な性悪説の制御にもなってない。ひどい時には性悪説的自由だけを正当化する法まで立法する。
性悪説はマキアヴェッリは君主に開き直りを許すように見えて、悪(実質は恐れさせるほどの技量)を貫く一貫性を求めているし、『韓非子』はちゃんと対称性を考慮した力学になっているのが読める。現代の軟弱な支配層のように、性悪説が人間が悪であることを当たり前の事実として容認し、克服する意味を退けるのだとしたら、何のための思想なのかと言うことである。
性悪説人間は性善説人間のおおらかさをもっと評価し、憧れて真似するようにすべきであって、付け込んで嘲笑うのは自ら環境を傷つけ自滅する行為だと知るべきだ。おおらかさを危険な環境の中で身につけるという苦行は、精神性の発達以外のなにものでもない。この場合に、自らに性善説を確信し、それを意志して貫けば神になるし、他者の性悪説を肯定して虚無を愛せるならば超人なのである。
精神力の強靭さでは超人に軍配が上がるのかもしれないが、神が天下をとった時の方が世界は幸福に満ちるだろう。超人は己限りの高揚感を、神は遍く愛を志向するはずだからである。いわば、超人は優れた英雄であり、神は微笑んで見守るおじいさんとかおばあさんである。実際のところ、そういう神の境地を身につけたおじいさんおばあさんがいなくなって久しいのが世界の悲しき現実であろう。(医学が発達しすぎて、長老システムの意義がなくなりすぎなのだろう。賢くないと長生きできないからこそ、老人は自然に敬われたという経緯もあったはず。)
そろそろ展開も終わりに近いかもしれません。
私が超克すべきは、ニーチェさんなのですが、
超人に対する神というのが、今回登場します。
この神はニーチェの殺した神ではないです。
ニーチェの殺した神の後に降臨した神を、
再度無力化するのが、今回出てくる神です。




