「メメント・モリ」は実に強烈な呪文なのですよ?
どこにも向かってない歩みなどない。
でも歩むのをやめたらどこにも辿り着かない。
きっと目的地はある。
歩みの全てが愛せるようなそんな目的地が。
そんな楽園があるという希望だけで、全ての歩みはその瞬間に祝福になる。
A.用意された道の果てに目的地はある
B.道を外れてこそ目的地はある
C.目的地はない
Aが一番胡散臭く感じるのは、気のせいかな~?(笑)
そして、今の世界の風潮はCに全額賭けたフリをして、
それが有能な人間の証拠みたいになってるけど、
そのせいで単にお猿さんみたいな幼稚な価値観なのは、
どうかと思うのですね。
私は人が暗い情念を抱いたり、醜い企みを持つことを否定はしない。ああ、なんて人間なんだろうと思う。私が嫌いなのは、そんな情念や企みに踊らされるだけの想像力のなさ。翻弄されながらも、独自の情念や企みを抱かなければ、人生はつまらない。
もともと暗い情念も、醜い企みも、理性で暴いてしまえば、そこには無知と無自覚があるだけだ。もちろん、こんな言及は文学を破壊してしまうだろうし、私もそれは望まない。
真理はそれぞれに与えられる、というのもまた真理だ。むしろ、それこそが私にとっての真理だろう。その真理から見れば、暗い情念も、醜い企みも、知と自覚の下で消滅してしまうのだ。それは単に深い感情となり、遠大な思考となる。
善と悪。美と醜。そんなものは存在しない。存在するとしたら、この世界が呪われた矛盾だらけだという事実だろう。矛盾がこの世界の本質であることが、同時に成立しないはずのことが現に成立しているこのことが、世界を面白くも醜くもする。
真理とは何か。それを使えば全てを説明してしまうこと。そして、説明が納得であることについては何も説明しないこと。これも結局は矛盾だ。経験しないとわからないのに、わからないと経験は失敗に満ちる。
そういう世界において、人間は一体、どう生きるべきなのか。だから、生れ落ちたときの最初の一歩の踏み出し方こそ重要だろう。
その一歩目が魂に届く一歩か、永遠に魂を遠ざける一歩かで、人生は祝福となるか、呪いとなるかが決定する。だが、呪いの人生こそ、途中で祝福へ転換する可能性を秘めている。祝福の人生が祝福であると気づかないことは呪いである。ならば、迷える羊たちよ、この解釈に全面依存した世界にこそ気づけ!
祝福とは、一つは忘却であり、もう一つは赦しである。一つ目は永遠に呪いを封じ込めること、もう一つは呪いを祝福と看破することである。地上に今必要なのは、二つ目の道だろう。一つ目はつまり「死」に他ならないのだから。二つ目につける名前を私は知らないが、それを為し得るとしたら「愛」なのだろう。
狭き門、とはよく言ったものだが、実際にはその門は、常に解放され、あちら側からは光が全ての人生を誘っている。狭き門を潜らんとするものは求道者であり、狭き門より来る者は救世主であろう。狭き門とはすなわち祝福された「死」なのだろう。聖者は、その門を行ったり来たりして過ごしている。
私はそんな風に世界を想う。
嘘や虚構(その中身、その効果)を信じるというのもまた、真実の在り方なのかもしれない。
対称性の破れによって質量が生じるように、記憶や嘘と言うのは精神の作用反作用を破ることが出現機構である。そして対称性はもともとあるから、それは時間を経て嘘や記憶は解放され、解放されるときに反作用する。この反作用を呪いと言うのが古の名残で、報いと言うのは道徳で、トラウマというのは心理学だが、対称性がいつか回復されなければ、それを破った原因もろとも世界ごと歪んで爆散するだろう。それもまた、反作用という対称性のなせる業か…?
はたして、こんな対称性は誰由来なのだろう? 私の物語ではこの真実こそが、ずっとテーマとなるわけである。則ち、問答無用にこの対称性神話に人類を巻き込むのが、世界作家(概念魔法使い)としての私なのである。
もちろん、この真理構造を看破して、私の世界から外れてしまえば、私の祝福(解釈によっては呪い)は届かない。「不倶戴天」とはいうが、それは「天下三分の計」とは違って天下を複数用意することで解決する。
多世界解釈しようぜ?




