さあ、自分の人生にタイトルをつけてみよう!
文学篇へ突入します~!
「永劫回帰」は、実際には意味のある人生ならば、しょっちゅう起こっているのです。
その構図は、目覚めて-成長して-壁にぶつかって-壁を壊して-また目覚める。
人生なんてのは、この永劫回帰です。
「ああ、この呪われた人生よ、もう一度!」
そんな洞察を描いてみましょう。
そうすれば、その円環から離脱することができ、
それによって、自分を肯定できるのです。
自己肯定こそ、超人への道。
私みたいに、最初から神の面影に気がついていると、
もっと楽に歩めたりはすると思いますけどね。
よく当事者が声をあげないと何も変わらない、なんて言うけど、当事者が声をあげたってなにも変わらない。当事者でない人間がその立場を見かねて問題に着手しない限りは、その問題は見向きもされない。
人権を踏みにじられた人がいくら声をあげても、踏みにじる側の人間には響かない。なぜなら当事者が言ってるだけだから。でも、その論理は実際には非常に正しいとも言える。
何かの立場を背負っている限りは、その立場を主張することは公正ではない。立場とは関係のないところからでないと、その主張の公正性は保てない。自分を守ろうとするのは公正さでも何でもない。
だから私がここから主張できるとしたら、男尊女卑はおかしいとか、その程度のことなのかもしれない。でも、男尊女卑を否定する気分に通じるのは、あらゆる優劣判断の無効であるから、結局は自分を守ることにはつながっている。
死を生きることは要するにそういう立場に立つことなのかなとも思う。そこまで立場を考えると言えることは、「あらゆることはいろんな角度から眺めまわしてみれば、すべてうまく行ってる」ということだけかもしれない。
苦渋に満ちた人生を送っている人には、その気づきこそ伝えたいかなとも思う。あらゆる角度から見てみるといい。物語に描かれてない側面を読むこと。描写されていない人物の背景に思いをはせること。
想像力こそ、人生を救うのである。私はほんとうに人生に必要な訓練は、そういう文学的な素養だと思っている。苦しみと悲しみにだって、強い怒りにだって、世界を憎むほどの絶望にだって、美しさも正しさもあるのだと。全ては解釈次第なのだと。
哲学の終着点が形而上学なら、そこより先へ進むには実際に地上に降りるしかない。その着地点こそは文学なのではないだろうか?
自分の人生を文学的な価値のあるものにすることは、ひとつの目標としてあり得るのではないかと思う。やりたいことをやるとか、楽しく生きるとか、幸せになるとか、それだけが人生でもないと思う。
客観的な構造なんてのは、全てを平べったいエネルギーの海にしてしまう。科学がどんなに宇宙を説明しても、そこには真理という名の一点の美はあっても、それをコテコテと展開したって、美しくなんかない。
真理を一つ一つの魂に与えてあげること。これによって、個性が煌めき世界は文学の舞台になる。自分が主人公であれ、読者であれ、あるいは傲慢にも作者であれ、この味わいこそが美だと思う。
不条理よ、永遠なれ!
そのありえない苦しみに満ちた人生たちに、理解不可能な悲しみと怒りたちに、永遠の光からの祝福を!
魂を知り、魂に目覚め、魂に生きる。ああ、自覚なく歩むその美しさに、本当の喜びを!




