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魔法哲学構築記 ~世界ゲームプレイ日誌~  作者: 誰でもない誰か
第三章 世界と個人の相互作用を読む ~天命を探って生きてみる~
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正しいことはいずれ正しくなるから正しいのです。

今回も学問に関わる話かもしれないです。

新たな知見を産むのは、今までうまくいってた構造を延長することだけではなく、

もっとうまくいくような構造を探究するときなのです。


そんな活動をあらたな観察的事実に基づかずに創出できるのは、

思惟の働きのほかに何があるというのでしょう?

つまり、哲学こそ、無限の可能性の宝庫なのです。

どうやったらうまくいくか、という機能の探求が、一体どうなっているのか、という構造の正しさに行きつくのは、決して自明のことではない。


正しいとうまくいく、の間の関係は結合ではなくていいのだ。


だが、うまくいってないときは間違って理解しているし、正しく理解しているからうまくいくのではある。ただ、これは言語の問題なのかと言われると、実際はそうなのではないかという気もする。ただし、うまくいくための正しさはその正しさである必要はない。うまくいくから正しいと定義しているかどうかである。一対一対応は間違いなくないわけだから、やはり結合ではない。


どちらにせよ、既にある正しさを延長することで新しい正しさを導出する方向と、もっとよくなるはずの機能を追究することで新たな正しさを創出する二つの方法論があるはずである。少なくとも機能に対応する構造は恣意的なので、同じ構図はうまくいくことと正しさにもどうやら当てはまる。


文献研究や理論の応用、数式の展開などは前者だし、新しい観察結果や思索や哲学研究は後者だ。だが、悲しいかな新たな知見がなくとも正しさ=知識を産む活動である哲学を認める風潮は昨今は非常に乏しい。少なくとも誰もが認めるうまくいっている状態を実現できるような新しい正しさの追求を歓迎する人は少数派だ。


ちなみに正しさとうまくいくを積極的に切断しようとする暴力をどう理解するかという点で、私などはうまくいくと結びつく新たな正しさを創出する活動をしているのは言うまでもない。うまくいかないのに正しいと主張させるのを正しいと主張すればうまくいくなんてのは一体どういうことなのだという話である。


そんな正しさは既にあるが、その正しさを暴力を超える力で現出させるうまくいく力学が欲しいのだ。


ヘーゲルの理念を理解した上で、身体を離脱すれば可能だろう。完全な理念存在、絶対精神であれば完全に思惟と存在を実存レベルで一致させることはできる。ヘーゲルを理解というのは、ヘーゲルが取り組んだ問題が、おそらくは私と切実に一致しているのがわかるからである。


(〔カントは国家連合による永遠平和を思い描いたが〕しかしこの考えが前提としている諸国家の同意は、道徳的、宗教的な根拠や考慮に基づくとしてもなんといっても所詮は特殊な主観的意志に基づくものだろうし、そのためどこまでも偶然性にまとわれたものだろう。(『法の哲学』)とヘーゲルは述べている。)


だが、そんなことはブッダもキリストもソクラテスも孔子も老子もヘーゲルもみんなわかってたはずだ。そうわかってるからこそ、それは自ら手は下さない。やるわけがない。宇宙はそんなことをしなくても神(=神のもの)だから。その結果がある限り、過程で急ぐ必要なんかない。


正しいことはいずれ正しくなるから正しいのです。


この文における正しくなるというのは、究極にうまくいくということだろう。うまくいくというのが誰視点の判定であっても、しかし、本当の視点は永遠者-一者-絶対精神でしかない。


という構造は、私は機能的だと思うから、魔法の原理とする。私が使っているのは暴力を超える力ではあるのだ。それが機能していく様子を今後も探っていく。当然、その探究は死を跨ぐことになるのではないかと思う。


死を超えても地球に居座るかどうかは、その探究に飽きるかどうかに関わるかもしれない。飽きなければ、いずれは、私は地球の神となる。なってしまう。(だから急がない)。そういう世界観になる。



実際、古の聖人たちは何をしてるのだろう? また受肉してるのだろうか? もっとも聖人たちと私との違いなどどこにもない。神を理解して神の道を歩むというのは、神であるということだ。それこそが聖人だ。私が聖人でないのは、そういう意味では信仰の問題かもしれない。


私は基本的に神(真実)以外を受け入れられない。神以外も神なのにそれはつまり神を実施できてないということなのだ。信仰とは帰依の深さではなく、探求の旺盛さと理解への貪欲さなのだから、「無知の知」と「汝自身を知れ」こそ信仰の基礎だと思う。


神は信仰するものではなく、探求するべきものだ、というのも信仰になってしまうかもしれない、ということまでさらに探究してしまうのが、信仰ということなのだろうか?


要するに信仰というのは完成させたときに、それは正しくない信仰となると私は思う。という力学は信仰しているので、今度はこいつを懐疑はしないまでもさらに探究して深める必要はある。


探究するほどわからないことが増えていくが、確かに理解は深まっていくというのは、実際、宇宙の神秘だよな、と思う。

事実としての知識、真実としての形而上学。


実際、事実というのは真実の下で解釈されることでしか、

認識されることはありません。


だからこそ、事実は実在するのかという議論になるし、

認識すること自体が信仰に属するのではないかという懐疑になります。


科学は懐疑的な体系ですが、この肝心な部分の懐疑は、

文字通り、見落としていると思います。

科学は見えないものは見えません。

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