宇宙の事実と真実に人間は徹底的に惑乱され混乱されるべきなのです。
事実と真実って字面が似てますね。でも大違いですよ?
生活は事実を生きること、人生は真実を生きることです。
事実は証明を必要としますが、真実は説明で十分です。
勝手に定義するな?
私は定義するというのがそもそもアリストテレス流の悪い伝統だと思ってます。どちらかというと私はプラトン主義なので、言葉を流動的に使うことや意味を固定させないことには強い価値を感じるのです。
とはいえ、まあ、厳密にカントさんやヘーゲルさんの仕事の圧倒さの前には、そんな主張も引っ込めますが。ただ、わかってもらうという時には、自分の言葉で語ることは大事でしょうね。
言語ゲーム。
この辺もいずれ語りますが…。そのためにも真実と事実の区別も大事かと思います。
別に学問の在り方にケチをつけるわけではない。ただ、議論しているのは事実ではなく真実の方だという認識は必要だと思う。これは研究をする者も評価する者もそこから学ぶ者も重要な見識だと思う。
それほど事実というのは確認困難である。観察対象の存在を何が保証するのかという話になれば、一気に科学の領分など超えるのだ。そしてそれを問題にしないというのであれば、明らかな怠慢だろう。あれほど方法論や分析手法、論理の進め方にこだわるのに、前提だけは無視するとかあり得ないのだ。
もちろん学問の進歩には一定の形式が重要である。だが、学問こそ、生活を脅かされる環境で出来るはずがない。少なくとも事実に関わる学問は切迫し焦りを持つ欲深い主観が顔をのぞかせないような、ゆったりとした観察環境が必要だ。
そして、真実を議論する限りはいかに権威と言えども主張を鵜呑みにされたら困惑すべきである。内容を問うのは説得のためではなく、議論に晒して磨きをかけることを主眼とすべきなのである。真実というのは限りなく高めることができるのであるから、もし影響を与えることに喜びを感じるとするならば、鵜呑みにされることではなく、他の真実を刺激する機会を提供できたことに喜ぶべきなのである。
学問にも方法論や分析手法、論理の進め方、その他にも雑多な技術があり、それらには習熟することが必要で、当然、専門的に活躍する人も出てくるだろう。逆に言えば、それだけのための専門家の方が、その学問に精通した権威者よりも、事実認識や真実を見る視点・観点については、より機能的で発展的かつ、偏見のない立場を持てるとも言える。
査読専門職というのも、もしかするとあるといいのかもしれない。頭でっかちよりは、頭空っぽにできる技術というのは、非常に希少価値があるだろう。
もう少し突っ込んで考えてみる。
事実は事実であって議論の余地などないと思う。だから、例えば、歴史認識を議論しているという自覚があるなら議論してもいいと思うが、歴史的事実を議論して決着をつけようというのは明らかに愚かなのである。
科学的な事実についてもそうだ。論文がアクセプトされたかリジェクトされたかは、事実を扱っている限りは査読側が神でもない限りおかしい。そこは事実の問題としてではなく、真実の対立だという認識を持つべきなのである。
(人間社会がそれを確信犯としているならいいのだが、どうもその空虚な信念に振り回されて70億人が全て愚民化している気がする。愚かとは人生における「無知の知」の不在と「汝自身を知れ」を人生の課題としないことだと考えるが、その話はもっと複雑になる。自明すぎて、単純すぎて説明が難しい。)
事実というのは客観的なものであり共有すべきことであるが、真実はあくまで主観であってよく、それこそ議論の余地しかない。真実の突合せこそが、社会を共有する人間の魂がコミュニケーションをとり続ける理由でもある。やはり、真実は比較対象があってこそ、研ぎ澄まされていくのであるから。
むろん事実を確かめるすべなど持てない人間には、客観的なことを完全に共有することなどできない。そう、逆に言えばそうの諦観を持たずして科学や歴史を語るべきではないと思う。事実こそ、神のみぞ知るだ。極端な話、事実というのは世界はたくさんあってそれぞれで違うことが起きているのかもしれないのだ。ずっと全ての意識が世界を共有しているという事実の保証すらない。
事実を真実を語るための基礎として利用するのはいいが、根拠としてもきっと無駄だ。真実というのは、考え方であり捉え方であり、端的に世界観であり、方法論に近いと思う。それこそが各自が各自の力で到達すべき課題を持つはずなのである。
そういう自覚に至ると、植物状態を脱する、と私は思っている。動物状態では事実を捻じ曲げることも覚えるだろうから、むしろ真実は迷惑千万かもしれないが、それでもそれが課題なのだろう。私の中では、自由-責任システム(原因-結果システム)はヒュームの懐疑を越えて稼働するが、その真実を持つからこそ、人間状態になっているとは思う。人間の幸福と植物・動物の幸福は次元が違う。植物や動物にとってどうかはわからないが、これは人間の圧倒的な真実である。
事実に対しても嘘がない態度は、真実と事実の一致という素晴らしい体験をもたらす。この追究こそが、植物から動物、人間を経て、やがて神へ上る階段だと思う。地上なんてのは、事実は嘘に隠されて何も見えないに等しい。嘘で隠蔽された事実の上に嫌が応もなく新たな事実を重ねて、それも嘘で塗り固められて見えなくなる。
そうして、生きるための基準も生きるための意味も見えなくなって盲目になる。誰もが生きる過程で真実を見失い混乱を深める。だが、逆に考えれば、真実を見失うことが、哲学を開始する条件だとするなら、地球ほど哲学に適した環境もない。地球に生きるからには哲学しないともったいない!というのは私なりの真実である。
もう一歩踏み込もう。
何が事実で何が真実かというのも、なかなか難しい。そもそも事実なんてのは真実がホログラムとして投影されただけの幻想だと言われても、私は驚きはしない。だが、それが真実だとしたらホログラム理論は果たして事実か真実かという話である。
理論体系の多くは真実の体系だと思うが、だからこそ議論するわけだし、これも決着のために行う必要はなく、お互いに刺激し合えばいいだけだ。我々は事実のために生きるのか、それとも真実のために生きるのか、というのは、それも本人の真実の問題ではあるが、私の真実の中では、事実は幻想なのであるから事実だけを生きる人もまた幻想である。そこに確かな心の存在を確信することはできない。ないがしろにするのとは別の話だが。(ないがしろにするのはきっと動物の段階だ。)
私の興味の一つに、この宇宙の予定調和は自覚されているのか、無自覚なのかというのがある。予定調和は一つの真実であると思うのだが、事実としてそれを実感するのは難しい。私も予定調和を知ってはいるが、実感はしてないから苦しんでいる。
なので、もし予定調和を知っていてかつ実感しているのに、それを知らない人や実感している人に対して、その人が課題を果たすべきだからという理由のある愛や思いやりで手を貸さないのではなく、意地悪で空虚な浅薄さから嘲笑っている存在がいるのであれば、その時がほんとうに「神は死んだ」ということだと思う。
そういう存在は、私からすればあり得ない。この私からすればの部分をどう表現したら真実の主張とできるのだろう。いつか、神の存在は背理法で説明(証明ではなく)される気がする。




