自然災害は人間のついた嘘と自然の維持した真実が対話で齟齬をもたらした結果です。
魔法使いを名乗る私が、なぜヘーゲルを信奉するのかというのを、
少し書いてみたいと思います。
簡単に言えば、彼の体系は世界の本質理解に基づくので、
理解とはすなわち原因と結果の構造と関係の知でありますから、
知は力なりなので、世界の問題はすべて構造と関係の解消に向かうのです。
余談ですが、
何が起きているのかわからないのに、対策を立てて無意味に突き進むのが、
知に秀でていない人間の一番悪い癖です。
その上、フィードバックを冷静に判断しないので、
どんどん問題があらぬ方向へ拡大し収拾がつかなくなります。
知とは、問題解決の方向性であり、
問題を産み出す方に回るというのは本当に存在としては本末転倒です。
もっとも問題を産み出す人には、それ自身が自己実現であるという考えもあります。
社会問題は大人しい植物的人間を扇動する動物的人間が引き起こし、
霊的人間の指導で人間的人間が沈静化に向かうという構造にも見えます。
しょせんはエントロピー増大(混沌化)と太陽的な自我集団による再秩序化ですね。
ちなみに、地球人類の問題の本質は、自然の法則を無視して、
社会法則を立てていることにあるのは、言うまでもありません。
きっと、これを解消したくない深刻な問題があり、
さらにそれこそが探求されるべきなのかもしれません。
自然の暦と社会の暦が一致しないというのがそもそもおかしいなら、
アウグストゥスに責任があるかもしれず、
日本などは太陰暦を復帰させる動きをとるのも面白いかもしれません。
ま、無理ですけどね。
私は自分の意見がそれほど間違ってると思えないし、すごく正当性のど真ん中だと真剣に考えているのだが、にも関わらず同じような思考にほとんど出会ったことがない上に、表面的な内容以上に賛同された経験もない。
私が常識的でないのは、おそらくは知的な発想だとは思う。そもそも私は自然こそ人間の故郷だと考えて、そこから知性も感性も感覚も総合して使用するが、たいていの人間は社会だけを基準にして知的な判断を下す。
領土問題なんかは典型的な例で、経済も政治も基本的にあいまいさを許さない。物事というのは宙ぶらりんにしておいた方が対立というのは顕在化しない。法にしても条約にしても契約にしても、人間社会には決めつけ事が多すぎる。(正しさや論証へのこだわりも知性に傾き過ぎであり、対立的になる。)
古代の聖人が「天網恢恢疎にして漏らさず」であるとか言うのは、この力学の理解あってこそだと思われる。この発想が西洋哲学で根付くのは、フランス革命の自由精神に憧れ、その腐敗を目の当たりにして絶望したヘーゲルであるが、この人もまた、現代人には理解されているとはいいがたい。
ヘーゲルの社会的な概念では「疎外」が一番大事だが、これは何かを解決しようとして整えたシステムが、逆にその解決を目論んだ性質の悪い側面を助長するというもので、法が人間として生きるための基盤となる秩序をもたらすためのものなのに、それに盲従することや悪用することで人間性を失う原因そのものになっているような状況を指す。
私が言う意見が突飛だとしたら、ただ単に、ヘーゲルを踏まえているからだと思う。対立を止揚するのがヘーゲルの主眼なのに、それを反転して用いたのがマルクスである。彼のヘーゲル理解は私より精緻だと思うが、完全に逆転している。今の世界の混乱の一因は、唯物史観であるのはこの観点から言えるかもしれない。(別の対立の軸であるイスラムの文化に関しては別に考察する。スーフィーにまで昇華すると対立になることはないのだが。)
ヘーゲルは物事を人間の視点ではなく、神の視点から見ているのだ。そして、ヘーゲルほど教条的な宗教を憎んだ人間も少ないのではないか。理念こそ神である。世界の中では人間精神が神である。存在は思惟と一致する。これが言語活動である。
私は存在を構造とみるといいと思う。そして思惟を機能として見る。現実(実存)とはこの構造と機能の一致だし、機能は構造の支えを必要としないが、構造には必ず機能が伴うことから、「機能が構造を要求する」というべきである。
ヘーゲルは純粋質料はあるが、純粋形相はない、としているし、形相は質料を規定し、質料は形相を制約するという言い方をしている。そして現実としての人生の命題は、根拠として規定と制約の内容を探究することにある。ここでは反省が活躍もする。
ヘーゲルの哲学にはヘラクレイトスの「万物は流転する」を内包している。あえて言えば、私は理念=神の本質をこの万物流転=愛として感じている。これを「0=∞=1」と機能内在型構造的に表現する人もいる。
私は人類はヘーゲルを本格的に理解すべきだと思う。ヘーゲルが達した地点は「愛」や「法」を本質的に理解する地点なのだ。それこそが、人間を人間らしくあるがままに、その本質に従って生きる道を理解させる。
変な話であるが、万物流転を信仰を向けるということは、在るがままで大丈夫という深い充足を産む。変化は逆らえば恐怖となり、変化を信頼することは愛を感じるのだ。
だから、二元性を基礎としつつ世界は理念としてまとまる。存在の思惟の一致こそが、理念的な世界統一になる。実際、地上で人類が目指しているのは、それを物質的に達成してみようという経験を試みる、神の計画そのものであろう。
我々人間は、神の細胞の一部である。神が自分自身を経験するために分割して知覚させるための装置が人間なのである。全ての活動をこの視点から理解できたとき、完全な涅槃に至る。至った涅槃に安住するのが解脱だが、それは実質、無と等しい。
であるならば、涅槃安住=解脱というのも、神ではないだろう。神は安住ではなく変化なのだから。ゆえに宇宙は本質は1なのでいずれ1に還るが、しかしそれは永遠無限の先と考えるべきかもしれない。そこへ還ることが可能だとしたら、経験存在としては宇宙とは1なんだと理解することを通してのみだろう。つまり、物質から精神を経て概念に至る。私に言わせれば、これが「0=∞=1」だということになる。
この間の構造的な根拠はデジタルを理解する人にはわかるかもしれない。私のようなアナログは根拠ではなく機能的な反省が主軸なので、あまり突き詰めない。あえて言えば宇宙の発展原理を見るのがアナログで、発展記録へ介入できるのがデジタルと理解するといいかもしれない。アカシックレコードに対し、アナログはROMでデジタルはRAMだろう。デジタルの悪意は問題になり得るが、アナログは悪も善もない地点にいる。
存在と思惟、そしてその一致としての言語。だから、「言霊」はある。むしろ言霊とはそういう理解をすべきである。そして嘘も思惟に属する以上、存在を要請してしまう。だから、存在と存在が一致しない言語活動は対立する。この排他的思惟が物理に持ち込まれて存在化すると暴力や戦争となる。人間同士の対立や抗争は基本的にはこれであるし、自然災害というのは人間の嘘と自然の真実との対話の祖語に過ぎないと見ることもできる。
この視点から見れば、社会問題なんて、原因も対策も本当に簡単なのである。アインシュタインも言ってる。「この世の重要な問題は全て、それを作りだした時と同じ意識 レベルで解決することはできない」と。つまり、同じレベルの解決策、つまりその時代の専門性はその時代の問題を決して解決しない。さらに進んだ理解、もっといえば抽象性を高めて観察や対策ではなく、理解し発展することが必要なのである。
ヘーゲル的な理解は世界の本質に根差しているので強力なはずである。理解発展という意味では、専門よりは総合が今後は力を担うと考えられるので、具体的ツールとしては社会システム理論などには注目すべきだと思う。
何事も本質が理解できれば、問題解決への協力もなされるであろう。そしてこういった理解への志向性こそが、ヘーゲル哲学の最大の魅力なのである。人間存在が己の成長に意義と生き甲斐を見出す時、社会もまたそれに応じて快適な方向へ発展する。全体で物事を考え、共同で仕事をし、思いやりの力を知る。
つまりは宇宙というのは、愛という機能を実感するための構造として、弁証法を採用しているのである。(だから、別の機能を実現する宇宙もあるだろうし、もしかするとそれらの宇宙が干渉しているがゆえに、悪魔的発想も可能なのかもしれない。)
社会問題は簡単だが、個人問題は難しい。私の持つ概念の常識は自然法則の支配する体系なので、人間が持つ生活の常識が所有や帰属を根底とする以上は、この対立の解消は容易ではない。たぶんだが、私は社会的には屈服して帰属し、その中で自然法的な発信をするというのが、矛盾解消の道だとは思う。問題は、どう屈服して帰属するかというところである。
ぶっちゃけ、人間世界で金を稼ぐ方法なんてわからん、ということである。
だって、私の人間としての本質は商品にならないからね。たぶん、200年後くらいには重宝されると思うけど。あるいは、ヘーゲルが立ち会ったようなドイツ国家の再編みたいな、おおきな政治的変革の時期に一致すれば。
私の本質で金になるとしたら、魔法の顕在化=天命の法則→生命の樹(占星術やタロット)とならざるを得ないのか。ああ、あとは喫茶店とかでのんびりと人の相談に乗ったりするのには憧れる。『放課後は異世界喫茶でコーヒーを』嗜みたい。経営は無理だろうが、喫茶店で働くのはいいなと思う。(酒は無理w)




