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魔法哲学構築記 ~世界ゲームプレイ日誌~  作者: 誰でもない誰か
第二章 魔法使い、世界の謎に挑む ~非二元性へ至ってみる~
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一部の勇者や英雄、救世主というのは宇宙プログラムを理解しているチートプレイヤーです

世界を信頼して生きているか、信頼できずに生きているかは、

為せる仕事に大きな差が出るかもしれない、と考えずにはいられません。


二元性のゲームをすれば防御が主体になりますし、

非二元性に突入できれば勇気は乱発できてしまいます。


どちらがゲームの本質なんでしょうね?

魔法使いの目指す、存在と思惟の一致とは絶対精神の視点である。つまり「世界は私、私は世界」である。天上天下唯我独尊とも言える。


この絶対精神の在り方「私しかいない」から、「私もいない」なるのはそれほど難しくないと言いたいところだが、実際にはとても難しい。形而上学的に有と無は一致するのであるから、無である私は重要である。そこに有であり無である、非二元性(空)の私がいる。実は「私しかいない」とはまだ絶対精神ではないのであり、本当の絶対精神は思考も感情も感覚も、その主体とはならない。


感覚的にはやってみるしかないのだが、それを思考がわかる形で表現してみないと感覚でそれを感じるのも本当に難しいだろう。


絶対精神はこの思考し感じ感覚するこの主体というわけではなく、それらが生じて活動し、それが投射されるスクリーンのようなものではある。スクリーンには思考や感情や感覚が映し出される。しかし、そのスクリーン自体はどこにもない。


スクリーンには現象するものが映し出されるが、スクリーンは現象ではない。そのスクリーンが私なのだから、この世界に私などいない。これが思考し感じ感覚するのが私だという世界を丸ごと処理する私の有であると同時に、それがどこの時空も占めることはないし、それを操作する必要もないという無の在り方となる。


私はただ、それを思考し感じ感覚していると思考し感じ感覚しているような思考し感じ感覚しているみたいな…。結局、無限遡行でもなく、ただ無において現象しているのが私である。


文学に近い表現を探すと、これかな?



春と修羅  宮沢賢治



わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといつしよに

せはしくせはしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける

因果交流電燈の

ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち その電燈は失はれ)


これらは二十二箇月の

過去とかんずる方角から

紙と鉱質インクをつらね

(すべてわたくしと明滅し

 みんなが同時に感ずるもの)

ここまでたもちつゞけられた

かげとひかりのひとくさりづつ

そのとほりの心象スケツチです


[以下略]



さすが、宮沢賢治という感じである。実際、彼はきっと一切、逆らわずに生きた人だと思う。逆らわずに生きるというのは、なかなか魔法使い的である。


少し、エネルギーとして分析して見よう。エネルギーの存在を仮定すると認識の形式が理解しやすい。ちなみに認識というのは、思考が名前を付けて世界から分離させた瞬間に、それは形式を持つというのが、一つ理屈の土台になる。これがわかるかわからないかは、現実の幻想性を看破して、本当の自由を生きることができるかどうかの分水嶺になるだろう。



思考が感情につける名前(例):

過去:恨み、恥ずかしさ、罪悪感、悲しみ、苦悩、栄光

現在:怒り、苛立ち、愛、憐れみ、楽しさ、苦々しさ、おかしさ、喜び

未来:不安、恐怖、希望、絶望



これらは思考が感情的なもやもやに名前を付ける以前は、単なるポジティブ、あるいはネガティブなエネルギーに過ぎない。名前を付けずに眺めていると、その量にもよるが自然と減衰していく。むしろ思考が現れる(思考する)と、新たにエネルギーがポップして、そのもやもやは確かな苦しみにつながる形を持って持続する。


このエネルギーは時に身体感覚にもなる。物自体を感知するときに流れてくるのは単にエネルギーで(というよりエネルギーの流れを感知するから物自体を想定するのだが)、それを思考が名前を与えるから知覚となる。悟性カテゴリーを働かせないようにしたら、知覚も単なるエネルギーなのでやがて減衰する。


そこにあるハンマーをくぎを打つのに使おうという意志を向けない限りは、ハンマーはハンマーとして認識されることはなく、風景に溶け込んだままだろう。ハイデガーが気遣いと呼んで、それしか存在しないとしたのは、この思考の分析作用による。ちなみに世界内存在というのも投企されているなんてもの、思考をベースにした見方である。


もっと言えば、世界にはただ表象だけがある。そして表象は時空間に限定されない。表象に対して、これは私だと思考する場に自我が存在するように幻覚するという仕組みなのである。



このような感じ方? 世界認識? 気づき方? これがわかってしまうと、あらゆることに抵抗するのをやめる。あらゆることに抵抗しなくなるとこの感覚(純粋なエネルギー知覚)になる。そしてネガティブもポジティブもエネルギーは感じ方によっては気持ちがいい。苦悩とか悲しみとか絶望とか恐怖とかも、この次元で味わうと何ら問題はない。


これはエネルギーとしての描写の仕方ではあるが、この非二元性については多くの宗教(むしろほとんどの哲学型宗教-東洋に多い)が語っているところである。老子だってそうだし、仏教もそう。その力学の集大成として『大論理学』を私は掲げるだけである。




こんな非二元性に達してから、もう一度「自分を定義」して二元性に戻ると、ある程度好きなように「自分が主人公の物語」を生きることができる。


確信犯。


その場合には、非二元性における涅槃を知っているから、あえて優劣感覚に狂うことで精神病になって、他者を傷つけたり、極端な自分本位であることは愚かしくて生きた心地がしないと普通に感じる。自分本意ではないようにしようとか、善であろうなんて思わなくても、世界の一体性を根源的に知るから、自分の本質は他者への貢献にあると真剣に感じる。


悪の定義はネガティブエネルギーの発生だと思うが、これは「自分の定義」に関わってる気がする。この場合の悪も、絶対悪というよりは、経験を豊かにしてくれる作用としての意義を感じるはずだし、死を賭して戦う場面も出てくるには出てくるのだが、それも役割分担だと自然に感じる。


真剣に憎み、恨み、呪うというのも、確信犯でありながら、そのネガティブエネルギーの膨大さは素晴らしく、時に忘却するほどのリアリティすら産む。だから、不条理は許せないと死を賭してでも立ち向かう勇気が持てるわけだが、全部が全部、ある意味、予定調和の演劇ではあるので、そこまで理解している勇者や英雄、救世主というのはチートだという意見もあるかもしれない。


魔王もチートかもね。無知の知を持たない者(一般的な物質的生活者)だけが、きっと本質的なプレイヤーであり、運営(宇宙の創造主)から見たら鴨なのであり、しかし一番真剣にゲームを模索する人にもなり得るかもしれない。その意味では、攻略本に従って生きる(考えないで生活だけ求める)のは本当にアホだ、という言い方はできるかもしれないが、そこにもメタ的な認識はありそうだ。


結局、世界は予定調和だな、と。何も決まってないにしても、それでも予定調和なのですよ。

私も非二元性に生きる方法は知っているし、一度感覚をつかんでしまえばいつでもそこへ逃げ込めますが、二元性こそが経験の醍醐味だとも思うのですね。


宇宙の神秘が隠されているのには意味がある。


実際にその通りです。むしろ本質的に宇宙が「私」の思い通りにならないという仕組みこそが神秘そのものです。存在と思惟が一致するにもかかわらず、そうではない幻想を我々は楽しむことができるのです。


すげーよ、宇宙。


まさに感じ入ってしまいます。実際、私も死ぬほど苦悩しますからね。もう物理的にも社会的にも死んでやると思い切って、投げ出せてしまうほど、宇宙を信用してしまえるのは、見る人から見たらチートなのでしょうね。



<完全に余談>

ユングはこんなこと書いてる。


「心理的な「同一性」はそれが無意識であることを前提にしている。これは未開人の心性の特徴をなすものであり、「神秘的融即」の固有の基盤である。というのは、「神秘的融即」とは、主体と客体が区別されていない原初の心的状態の、つまり原始の無意識状態の、生き残りに他ならないからである。」


魔法が非二元性とも密接にかかわる理由は、無意識が関与するからであり、そもそも魔法とは無意識の力学に近いのだ。だから、形而上学を心を持つ人間が扱える形式にすると深層心理学になる。こいつを魔術として使うのは、危険そのものでもある。なぜなら(我欲に基づく)意志とは非二元性への無理解に漸近しているのだから。

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