人類の今後の歴史を予言できる仕組みについてほのめかしてみる。
哲学史を概観してみても、重要な動きはカントからヘーゲルまでの40年間に集約されているように感じてしまいます。(カント-ラインホルト-フィヒテ-シェリング-ヘーゲル)。そこにはソクラテス以前、さらにプラトン、アリストテレスの二元性を契機として展開された形而上学を要約することに成功し、その後の現象学やそれが合流した実存哲学、カント以降の分析哲学もすべてが実際、内包できてしまう包容力を感じるからです。当然、哲学がわかるなら、自然科学などは赤子の手をひねる様なものです。(数学という言語や論理が難しいだけで、大事なのは無思考の展開より意味を理解することです。理解すれば応用的に展開することもできます。)
「ヘーゲルがわかれば全てがわかる」
というのはあながち言い過ぎではないと思います。というのを、少し平易な言葉で書き表してみました。
誤謬は歴史性の中に包含され常に解消される。ゆえに誤謬もまた必然であり、その意味における純粋な無意味ではない。形而上学が何ものも取捨選択せずに体系化できる構図には、この意味・無意味のトートロジー風な含みと流動が根源にある。
ところでいわゆるドイツ観念論(啓蒙哲学)というのは関係性の哲学だと言えるが、出発点のカントの代表的な仕事は認識論である。ところが『純粋理性批判』はその着眼と成果において多くの成功はおさめたとはいえ、認識は対象を必要とするため主客(純粋統覚と物自体)の対立(無関係・完全分離)が解消できない。
そもそもカントは直観を感性に限定したし、また自然科学の成果も前提にせざるを得なかった。このためカント哲学を真理の分析論の先駆けのような、浅い捉え方をする勢力も後継者として産んでしまった。この浅さを引き継いだのが新カント派や分析哲学で、その浅さこそが実存や精神を語ることができないという弱点である。(宇宙の構造を解き明かしたとしても、人生の悩みには全く対処できない。)
実際にカント哲学が威力を発揮するのは、認識から表象にまで展開されて以降である。カントの物自体という最大の矛盾を解消するのも、表象においてである。表象においては、表象は表象されるものと表象するものの間にあって、統一的に動く。ここにおいて、初めて主客は関係性を取り持てるようになる。それはその対立や矛盾の解消の可能性そのものになる。
逆に世界進展は、この表象こそが第一原理となり、ここから主客という二元が生じるのである。二元に至って構造であるから、表象は機能である。機能とは働きなのであり、宇宙は最初は目的しかなかったという言い方もできる。この進展は『精神現象学』で語られる。そして、その構造が『大論理学』である。(『大論理学』は関係性とその解消の力学とも言える。)
原初の表象であり機能である、宇宙の目的のために人間界にはいくつもの神話、学説が誕生した。それらは元を辿れば全て同じ目的であり働きであり機能に行きつく。さらに言えば、誤謬であれ、蓋然性であれ、真理であれ、この機能を根源としている構造という意味において全ては同じ立場になる。
概念の時間なき歴史進展とはこの形式を言う。つまり、それは表象の歴史である。物理的な因果の歴史では、ここまで明確に発展の意味を明確にはできないし、また今後を予言することも不可能である。形而上学の射程は、あきらかに科学を超えるのである。
などと言う表現もできる。表現に絶対はない。表現とは表象の私から我々への転換とも言えるかもしれない。
閑話休題。
魔法使いは直観を能動性として使う。
認識の対象がなくとも、表象は可能であり、感性的認識が受動的なのに対して、悟性や理性の能動性も表象に反映させ、これを直観して存在とする。
存在と思惟の一致。
ここに受動は能動と軌を一にする。したいことがすべきことでなければ、魔法は使えない。すなわち、魔法使いは自分個人のためではなく、天命に従って生きる宿命を喜んで選択する。
私の読み(一種の予言)では、ようやく自由が実現する世界になりつつあると考えている。自由とはあらゆる外的な構造との対立を内的な心が解消することである。規範を内部と外部との関係性に保つ運動と看做し、その自由を責任において理解することである。そこでは自ら理性を働かせることが当たり前となる。
その勇気を持つことが、喫緊の人類の課題である。カントは『啓蒙について』という書物で真っ先にそれを指摘しているのであるから、そのころから約束された人類の発展の方向である。フランス革命で自由が表象されて、もう時間としてはだいぶ経つ。
なお、自由に対する意図的な誤解というのはずっと行われてきた。新自由主義の言う自由は、存在としての自由とは無関係である。すなわち責任の構造を持たない。いわば、作用反作用の法則を無視して、作用だけを主張する恐るべき傲慢な対称性の破れなのである。
これは人類を滅亡させてもおかしくないし、人類が滅亡するならこれを真の原因とするだろう。自由を取り違えた彼らはその傲慢さでもって、選別した人間だけを残して、人類を間引こうとすら意図している。
いわゆる、新世界秩序やら悪魔協会といったカバール(悪魔崇拝)である。そしてカバールだけになった世界も悲惨である。誰も人間としての人生を歩まないのだから、自然淘汰に対抗できる人間としてのアイデンティティを持たないため、確実に遅かれ早かれ滅びを辿る。
人類はこの勢力を地上から一掃できるか、あるいはその勢力の餌食となって潰えるかの二択に近い状態になっている。新自由主義には日本の政府や産業や含まれる。魔法使いの私が戦う相手は、人類を滅ぼそうとするそういう自由の誤謬を持つ勢力である。
彼らは真理を徹底的に排除する。だからこそ、文明を支える科学技術を虚構として、理解させずに用いさせる。人を生かすための技術を殺すために使う。現代の科学技術が真理に背いているのは、自由を誤解する者たちが利用しているからである。
科学技術を自然の法則を踏まえないまま、欲にまみれた意志を実現するための魔術として使用していることが、結局は環境を破壊し、災害を呼び寄せ、人心を荒廃させ、戦乱を常態化させるのである。(カバールには災害すらも人為的に引き起こしている疑いがかかっているが、さすがに私には確信できない。電磁波や情報環境の独占などはあり得るが…。)
けっして平和は自然状態ではないが、自由を存在の理解の基礎に備えるのであれば、それは法となり、法は秩序であるから平和へ向かうはずなのである。自由への理解が、今後の人類の鍵となるだろう。
そういう運動が進展するか、あるいは徹底的に潰えさせられるかということである。天命を奉じ、その圧倒的自由を謳歌する根源的幸福を知る魔法使いの働きは恐らく重要になる。
陰謀論に属する内容ではある。私もこの手の情報網は持たないが、自由への誤解が人類を破滅させる可能性は十分切迫して感じている。
平和ボケしている場合ではない。気をつけろ!
怠惰に侵されて、与えられた餌に幸せを感じるのをやめるべきだ。経済ゲームも芸能ゲームもコンピューターゲームもプログラマの意図通りに動くゲーマーは嘲笑の対象だと知るべきだろう。




