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魔法哲学構築記 ~世界ゲームプレイ日誌~  作者: 誰でもない誰か
第二章 魔法使い、世界の謎に挑む ~非二元性へ至ってみる~
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愚者もいつかは賢者にならねばならない。

形而上学人気ないですね。

科学なんかよりずっとファンタジーなのに。

ファンタジーだけど、科学より事実であり真実なのに。


科学は信仰だけど、形而上学は真実だからね。

これがわかる人が少ないから、世界は平和にならないのです。

世界が平和でないことこそ、科学が真実でない証拠ですね。

(正確には科学の知識は正しいけど、理解は不十分ということです。)

形而上学の難しさはそれが認識対象でないことから来る。だが、認識する対象についての確からしさこそ、疑うべきであるし、その疑いの正当性と回避方法を持つのもまた形而上学である。


認識の成立は、対象を要求するが、しかし対象の実在を要求しない。この辺は私も把握しきれないほど精緻に『純粋理性批判』が行っているから、そちらに任せたい。ただ『純粋理性批判』も感性を前提にするし、そうでないとその議論は崩壊するので形而上学そのものには達しない。


言ってみれば、形而上学は認識を前提としない。その系譜としては、パルメニデス、ライプニッツ、ハイデガーは正当な流れだが、なぜ彼らは無を重大と見なしながら、思索しなかったか。それゆえに「万物は流転する」を形而上学の基本へ据えられなかった。


世界は認識から遠いものほど理解が難しい。なぜなら観察も検証もすべてが認識を前提にしている。現代の主流哲学である科学の眼が認識を超えて機能することなどない。理解できないものは存在しないのと同じ。ここでもやはり無は棄却される。


だが、実際のところ、認識こそが無だ。認識と対象の結びつきは完全に個性が由来するのだ。そして個性も経験の意味付けから派生したものである。(人類としての個性としては悟性、人格的個性としては理性などになるかもしれない)。こういうことは形而上学から見れば当たり前だが、認識を前提とすると観察も検証もできないために全く理解不能になる。


一度、認識こそ信仰ではないかと疑うべきなのだが、信仰の篤い人間は「見たいものだけを見る」のが基本なので、「見ても見なかったことにする」のもうまい。これは信仰対象が神であれ科学(認識)であれ同じだ。この罠を抜けるためにも、全ては在るであり無でありその運動である、とする形而上学の「捨てない知恵」(思惟と存在の一致)こそが求められるはずなのである。


形而上学こそが信仰ではないのだ。信仰は排他(決めつけ)を本質とするが、全てを包括しようとする形而上学は、排他こそを排除しようとし、それも排除しない。もちろん形而上学にも起点はあるから、それそのものは信仰というべきだろうが、その信仰を想っているのがその起点である。流動する万物にして一者である存在、認識に依存したら、宇宙規模の人生を費やしても辿り着かない地点が形而上学の起点である。


真実から離れた生は、常に死が対極としてある。そもそも解脱という概念を理解することも出来ず、近場の時間的系列しか認識できずに一生を何度も終える。何度も何度も。何度人生を行っても、認識に依存する限り、人生の意味は果たせない。そして、何度も認識を超える経験を得るまで、生存を繰り返す。


形而上学を受け入れるための一つは、認識への懐疑であることは、以上の議論からわかると思う。実際に、生活でそれを実践するために必要なのは、「汝自身を知れ」であり「無知の知」であると考えられる。形而上学のない人生は嘘である。なぜなら、真実を求めないことが形而上学を無縁とするのであるから、そこは同義反復なのだ。


真実を求めなければ「嘘」をつける。嘘に抵抗を感じなくなっているとき、そこには善悪を知る精神はない。真実と善悪はここで交叉する。そして、光と言葉の同源も知る。それらは神でもある。


悪は為せるが、愚かになることはできない。いや、愚かとは悪の効用(形而上学)を知らないことに過ぎないのだから、愚かであることはできる。ただ、愚かになることはできない。一度、知ってしまえば(賢くなれば)忘却しなくては後戻りはできないのだ。


賢者ならば、悪を為す者を糾弾する必要はない。ただ、憐れめばよい。賢者は死を知る。愚者が賢者を殺すことはできるが、賢者は肉体ではないから死なない。そして、愚者は賢者を殺した罪を深く感じて恥じ入る過程なくして、賢者への道は完全に閉ざされる。そして、愚者もいつかは賢者にならねばならない。

人はいつまで、知識は自分の脳に蓄えられるという根源的な愚昧さから脱出できるのだろう? 知識などはそこへのアクセスの仕方次第だというのはグーグルさんでも教えてくれているではないか? なぜ、いまだに覚えること、知っていることに興味を持ち続けるのか?


いったん、興味が理解へとシフトしたら、まちがいなく気が付くはずなのだ。我々は本来は全てを知っているが、そこからの想起するための手段を経験によって思い出しているだけだという真実に。だから、それをわかっているということは知らないが苦にならないということだ。我々は知るべきなのではなく、理解すべきなのである。


「科学はそんなことも忘れてしまったのかね?」


時間と忘却。真実に埋め込まれた真実そのものである謎は、そんな風に呼ばれているかもしれない。(時間と忘却は同じものだ。)

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