快と善を取り違えるのが一番の不幸である。
人生において、善と悪は快と不快以上に大事だと、心で生きる人は考えます。
しかし、善や悪というのは何なのでしょう?
それに答えを出すのは、感覚をベースにする科学ではあり得ず、
思惟によって存在(全=一)を知る形而上学なのですね。
こういう話を理解できる人が少ないために、社会は混乱してますね。
そんな社会から脱出するなら、この手の考察は有効です。
別に魔法使いにならずとも、人間は生活ではなく、人生の意味のために生きるはずです。
それとも全てを諦めて、動物として自分を定義しますか?
ニーチェさんはやたらと疑問を持ったらしいが、善とか悪というのは考えるものではなく感じるものだと思う。むしろ、ニーチェさんが考えざるを得なくなった理由が、考えられた善と悪が固定化して示されてしまったからだろう。
宗教でもなんでもそうだが、私は組織の論理がとても危ういと思う。人間は個人の感性に従って生きるべきなのだ。善と悪もそう、これが基準だと押し付けられるから余計なことを考えてしまって、感じたままのものに蓋をする機会を与えてしまう。
私にとって、罵倒は悪だし、呪いも悪だ。「神に代わっておしおきよ?」なんてのも、本当にそんな機能があったとしても実施するなんてのはおこがましいし、そもそも悪だ。悪だから善なる力なんて持つわけがない。
人間が言葉を持ったのは、協調するためであり理解するためであったと思うのだが、それを罵倒するため、嘘をつくために用いるというのは、根源的に悪だと私は感じるだけだ。私がすべきなのは、それを自分が為すことを拒絶するだけであり、不正使用を糾弾することではない。
ただ、人生とは戦いではある。私は善悪は分かるが、善を為すことへの拘束力もまた振り切ることはできる。悪と知って悪を為すこともできる。わかっていてやれるという自由。絶対にするべきではないが出来るという圧倒的自由は貴重だ。
善と悪に関しては考える前に感じるべきだろう。そして何より、感じることができてしまうことに驚くべきだろう。その感じ方に個性はある。もしかしたら、善と悪を考えることこそが善だという感じ方をニーチェさんは持ったのかもしれない。
もっと個人をベースにして、人間は生きるべきだと思う。個人のベースが完成して初めて、組織を適切に利用できる成熟した自由があるはずだ。この自由を知らずに虚構の中の安全を求めるのは、善とか悪という以前に、愚かなのである。無責任の毒は、いつか責任の猛毒となって自らに還ってくる。無用となった自分への組織の裏切りとして。
人は目的があるから、生命として構造化した。なぜ生きるのかについてはそれが答えである。機能が要求したから構造となったのだ。ならば、構造ではなく機能を生きるべきである。お前は人間として、どういう機能なのだ? これは調べることでもあり、決めることでもある。
自分は何者であるか、という機能に基づいて、善悪は判断されるべきだし、そもそも自分は何者であるかを認識する方法として、感情を利用することになる。感じることこそ善悪である。考えることは善悪ではない。考えて定義する自分より、感じて定義する自分の方が間違いなく幸福に近いのである。なぜなら、幸福こそ感じるものであるから。そして、幸福はいつだって善である。
科学はそもそも善悪を定義できないです。科学的発想の延長にある罰則規定のある法律を、善とか悪とか言うのは、非常におかしいですね。あるのは快と不快(つまり都合と不都合)だけのはずです。善と悪は徹頭徹尾、形而上学(精神の学)の持ち物です。
科学の蓋然性と形而上学の独断性のどちらが質が悪いかと言えば、主観重視の人間には科学は牢屋でしかないし、客観重視の人から見れば形而上学は押し付けとなるのです。
「天網恢恢疎にして漏らさず」は自由にとって理想に近いですが、これが内外でうまく機能するためには、人格の力が必要ですが、人格は科学ではなく形而上学です。
科学の方がいいと思う人は人格を信用できない人ですね。本来は科学が都合がいいのは、牢屋を作る人だけです。
人格を知る人は、内側に規範を持つ方が、尊厳を保つのに有効だとわかってます。「免れて恥じなし」な生き方で薄っぺらい科学の幸福なんかよりは、はるかに巨大な幸せを知ってます。
信仰とは独断であるけど絶対性がある。そして科学は蓋然性の上に実際には独断です。科学が前提とする客観って何ですか? 主観なくして客観なんてあるんですか? ってことなんですよね。
これは次のセクションの話題になるかもです。




