成功者になろうとしてはいけない。価値のある人間になるべきだ。
魔法使いの関心は能力開発にもあります。
才能や環境で決まる能力の意味と、それに対抗して伸ばしていける機能への関心は強いです。
非常に複合した面白い課題ですが、今回は分析と総合という視点で考えます。
IQテストとかの能力検査の結果には、やる気がとても反映されると思う。それに最近よく見るIQテストはすごく偏った能力しか判定してない気もする。やる気も能力だという意見もあるだろうが、それも偏りの一種だ。
金子書房さんってそう言う系統のテストに強いと思うけど、それこそロールシャッハテストとか判定の難しい奴もやってたはずだけど、あそこで提供されている知能検査って数学的ではなくて国語的だったり美術的だったりするように思う。(私が受けたことがあるやつはマンガのようなものを説明する、解釈する、違和感を発見するみたいな性質のものや、絵で表すようなものがあった。)
私が悪い結果が出るからひがんで文句を言ってるのではなく、能力なんて測り方次第だと言ってる。トランプ大統領には負けるけどそれなりのIQは出せるし、知能検査でも「天才」と判定されたことはある。MENSAのテストは受けたことはない。
それでも確かに客観指標として利用はできるとは思う。大学受験も測り方次第という意味では変わらないし、だからこそ学歴なんてのより、卒業論文の内容とかそういうのを審査すべきだと思う。少なくとも測り方の角度や深さは段違いだと思う。
ただし、私は知能なんかよりは性格の方がはるかに重要だと思うし、これも指標はあるわけだが、そもそも客観的というのが大きな罠で、性格的にも客観的なものを重視する人は、物事を深く考えない傾向が強いと思う。なにせ、人生の最大の問題であると見なせるはずの「幸せ」は客観指標ではない。それすらを客観だと見なしかねない乱暴さが、この世界を昏くしていると思う。
時代は観念論から経験論、その融合へ向かうと思う。哲学では既にカントが示した位置だ。IQテストなどの指標というのは非常に経験論的だと思う。観念論と経験論を推論形式で言えば、演繹法と帰納法だと思うし、それぞれ独善性と蓋然性が問題になる。(ものすごく割り切った言い方してるけど…)
総合的な能力は演繹法の確かさが核になると思う。なぜなら、帰納法は帰納法の有益性も演繹法のそれも説明しないが、演繹法は帰納法も演繹法も性質と限界を語るからである。つまりメタ機能が演繹法にある。卒業論文の質なども、演繹に通じた上で、帰納法的判断が要求されるだろう。評価する側も同じだ。
評価する人間の質の確保が実際には重要になるのだから、これからの世界はそういう人材が引っ張っていく必要があると思うし、まずその必要性の認識こそ大事だと思う。今まで科学的思考、すなわち帰納法的発想しかしてこなかった人は、演繹法を特別に訓練すれば総合力はもっと拡大するはずだし、同じく逆も言えると思う。
今の大学教育でも演繹法を活用できる人はとても少ないと思う。そして、知識と知恵の違いも分かっていない。そもそもが、「知っている」と「わかっている」には大きな隔たりがあるし、知っているは連鎖するが、わかっているは創出する。
もう少し、知の能力の体系を整えてみるべきかもしれない。知覚できる、知識を獲得できるというのは、成果の伝達が可能なのだ。それに対して、理解できる、論証できるというのは伝達不可能な固有の力になる。後者の方法論や能力開発の手法は今後、大きな課題となってくると思う。なにしろ情報価値を判断するリテラシーもこの機能に関わる。
そして、ともかく手法の開発に取り掛かるためにも、まず必要性の認識が大事だ。そこは、総合力でこそ成功した人間の鶴の一声が必要かもしれない。成功を目指す方法は専門家の方がはるかに明確だし、評価もされやすい上に、総合力の人はそもそも希少だし、内容で理解されない日本という土壌では、確かな成果として評価されている人はほとんどいないと思う。
最後にアインシュタインの言を紹介しておく。「優れた科学者を生み出すのは知性だと人は言う。彼らは間違っている。それは人格である」。(ちなみにこのセクションのタイトルもアインシュタインの言葉である。)
分析と総合というのは、ちょうど逆の論理ですね。
専門へ具体化していくのが分析で、総合は抽象していきます。
知性と人格という場合も、私は知性を分析、人格を総合として位置付けますし、
分析は客観的でなくてはならず、総合は客観ではあるが主観も重視します。
分析は根拠が大事で、総合は反省の繰り返しというべきかもしれません。
一度に語りきれる内容ではありません。
なお、性格の話が出ましたが、なぜ総合と捉えるかというと、
「汝自身を知れ」「無知の知」というのが、総合には必須であり、
これは人格とか性格の問題が強いからだと考えるからです。




