進化発展は世界創成から続く不可避な呪いです。
前に政治を書いたので、少し経済に対することを導入としてみます。
本題は、世界の捉え方です。
お金というのを、ちゃんと心に結びつけて考えるなら、
手っ取り早いのは通貨単位を変えてしまうことかもしれません。
「円」では何を言ってるのかわからないので、
「感謝」とか「賞賛」とかそういう内容を表すものを考えるといいかもです。
ま、現実にならないことくらいはわかりますよw
仕事の対価を正当に要求するというのは、職人として立派な気質だと思う。その仕事の見事さとそれを可能にする技能に対する賞賛、それを実際に使用して人を助けることに使う誇りへの感謝、そういうのを表すのに、お金では不十分である。お金は最低限なのだ。
心が伴わないところにお金が存在してはいけない。お金では十分に表しきれないとしても、心こそが本来流通すべきものだ。心で経済が回るなら、もっと貢献の価値が重視される。人は自然に自分の能力の活かし方を心と結びつける。能力を磨く前に志を点検する。
お金が単なる交換価値というのは致命的に生活を思考停止に追いやるのだ。これは虚構を道具以上の目的と扱う社会では当たり前に成立してしまう。大切なものを虚構にすれば、社会全体が嘘になる。人と交流することがこれほど面白くなくなってる原因は経済にあると思う。
理想的には、人との交流とは交換ではなく、一方的な与えるの応酬だと思う。一方的な与えるが双方向になると、交換に見えるだけ。そう、これも発想の原点の違い。人類は「もらえるからあげる」、しかし進んだ文化では「与えたい、結果的にこちらももらえる」。こういう気付きになるまでに、人類は再び滅びを経験するのではないだろうか。
「第三次世界大戦の武器が何になるかはわかりませんが、第四次世界大戦の武器は石と棍棒になるでしょう」というのはおそらくジョークではない。戦争も「もらえるからあげる」が基礎にあるから「くれないなら奪う」というだけのこと。この発想が原点にある限りはなくならない。物は形があるから、そう言うことも仕方ないかもしれないが、なぜ形のない心までその原理を適用するのか?
形は内容を引っ張っていく。「構造が機能を産む」のではないが、構造は機能を象徴する。構造に本質を見続けていると、機能の方を忘れてしまう。だから、意識して「機能が構造を要求する」を知り、実践する必要がある。形として物の交換を見続けてそれが現実だと思うと、内容としての心の交流は滅亡してしまうということである。
内容が形になるは時間がかかる。時間とは幻想だから、それが経験の不自由を演出する最大の秘密だ。だから、ハイデガーなんかは存在論を『存在と時間』なんてタイトルで書き表そうとしたくらいだ。彼の目論見自体は論証としては失敗したかもしれないが、時間論は存在論だという洞察は価値があるし、その意図は伝わる人には伝わっていると思う。
時間の幻想を見抜かない限り、人類に明日はない。超弦理論的な発想より、ループ量子重力理論の発想だとそれも可能にはなるかもしれない。私は分割不可能単位という考え方は悪無限的であまり面白くないとは思うけど、その辺もたぶん双対性が成立しているのだと思う。(当たり前だが私の論証力はそこにはない。)
きっと何かの理論を問題の解決だと認めたとたんに、新たな問題が湧出するだろう。世界に根本的な解決などはない。なぜなら、世界に謎があるのは、謎を穴として運動を起こしているからなのだ。有の中に無を埋め込むことによって、有と無の対立を止揚して成が生まれるような構造になっているのだ。
その構造を要求したのは、絶え間ない発展という機能だ。発展という機能を構造化するために、物理は宇宙を創造し、心理は現象を事件化し、概念は弁証法であるのかもしれない。
宇宙はずっと進化し続ける。停滞や退化が避けられない場合は破壊が起こる。今、人類が直面しているのはこれだ。次の時代の真実に対応しなければ滅亡してもおかしくはない。人間が知るよりはるかに、宇宙は深淵だし、その深淵に想いを馳せない限りは、地上のすかすかの現実と戯れて、一生を殺伐とした気分で過ごす。
人間が求めるべきは、心理での生活だと思う。つまり現象界でそれを物語として生きることだ。そのために物理という構造を利用するべきだし、深く理解するために概念へとアクセスすればいい。物を感知するのが感性で、そこに意味をもたらすのが悟性、さらに解釈するのが理性だと考えれば、人間の全体性へ回復し、偏った生き方に歯止めがかかるのではないだろうか。
魔法使いは解釈から入る。物が感性的存在、現象が悟性的存在、概念が理性的存在なら、素朴な生活が感性、科学は悟性、魔法は理性なのである。ちなみに東洋は感性の段階、西洋は悟性を活用し、東洋と西洋の融合した太極の理解が理性であろう。太極は現代よりも古代に戻った方がはるかに多くの文献に恵まれている。
感性、悟性、理性という分類を出しました。カントも使ってる概念ですが、どちらかというと、私はヘーゲルに準拠しています。
『大論理学』では、第一巻有論が感性、第二巻本質論が悟性、第三巻概念論が理性、だと私は解釈しているのですが、『大論理学』自体が概念的な構成ですね。
自己と他者。
実に深い問題です。むしろ世界はそれしかないですね。だから、世界(神)は愛なのです、と言っても妄言にしか聞こえないでしょうが、そういう妄言の「根拠」を歴史的にではなく、永遠の相で「反省」すると、たちまち理解の範疇に入るのですよね。時間の謎こそ、解くべきです。




