ベルリアンヌ嬢の決着
北校舎の横、裏手に続く角。あまり皇太子殿下が立たない場所といえるそこに立ち尽くしたまま動かないアルバートに気づかれぬよう、ベルリアンヌは静かに歩み寄った。
近づくと、彼の肩が細かく震えているのがよく分かった。なんとなく、怒りによる震えではないように思えた。背中に触れるまで後二歩といったところで立ち止まり、静かに声をかける。
「アルバート殿下?」
振り返ったその顔は紙のように白く見えた。形のいい唇はわなわなと震え、目には涙すら浮かんでいる。ベルリアンヌは尋常ならざるその様子に眉根を寄せてから、目を見開き片手で口元を押さえてみせた。彼女自身以外の目には、その時初めて裏手から聞こえる口論が耳に入り言葉をなくしたように見えるはずだ。
「どういうこと!? どうしてもう来るななんて言うの!?」
「何回も言ってるだろ! 君がケヴィンやヴァージルとキスしてたって聞いたからだ! 僕にしたあのキスは汚れていたものだったんだな、この売女め!」
「そんなの噂に過ぎないでしょ! あんたの婚約者、前からあたしに嫉妬していじめてきてたじゃない! あの性悪女が嘘ついたのよ!」
それはセイラとデズモンドの声だった。魔術師学連の若き期待の星と目されるデズモンドは、つい先日まで魔術の研究や許嫁を放り出してセイラに夢中だったはずである。もう一歩踏み出すと、アルバートの肩越しにデズモンドの後ろ姿が見えた。青みがかった長い髪を振り乱し、ちらりと見える耳やうなじは真っ赤に染まっている。
「なんだ、騒がしいな」
「やだ、喧嘩?」
「どうした、どうした」
騒ぎを聞きつけて他の生徒たちも集まってきた。ベルリアンヌはさりげなくアルバートの手を引き、人集りから少し離れる。
「……ベルリアンヌ…………」
殿下はしばらく口をパクパクさせた後、今にも泣き出しそうな声を上げた。実に情けない体たらくだが、真実の愛とやらが崩壊してそれほどショックを受けておられるのだろう。後ろで見せ物になっていると思しき男女の怒号を聴きながら、ベルリアンヌは心底残念そうな表情を作った。
「殿下。残念ですが、私はあのやり取りが真実だと思います」
「セイラが……私は、清らかな人だと思っていたのにっ」
ついに膝から崩れ落ちたアルバートに手を差し伸べる気にはならず、ベルリアンヌはただ冷めた眼差しで男を見下ろした。今の発言から推測するに、殿下はまだセイラと口づけを交わせていなかったらしい。それを許嫁の前で嘆く愚かさに、元々冷えきっていた気持ちがさらに冷めるのを感じた。
――愛も憎しみも恨みもないから、目を覚まして下さればそれでいいと思ったけれど。駄目ね。付き合いきれないわ。
アルバートがようやく顔を上げ、スカートの裾に縋ろうと手を伸ばしかける。だがベルリアンヌが一歩後退し、手は虚しく空を切った。その一歩はベルリアンヌなりの意思表明だった。実際の判断はお互いの両親がするだろうが、ベルリアンヌはアルバートを夫として信用出来ない。そう読み取れる一歩だった。きちんと読み取ったらしい周りの生徒が息を呑み、アルバートの顔が別の絶望に染まる。見下ろす姿勢はそのままで、ベルリアンヌは次の一手を決めるべく冷酷に考えを巡らせ始めた。
「キャアアアァッ!」
誰かの悲鳴が、その思考を切り裂いた。背後から、セイラとデズモンドを取り囲む野次馬の群れから発されたものだった。
「刺した、子爵令嬢が刺されたぞ!」
「早く先生を! 近くの先生を呼べ!」
「誰が癒しの魔法を使える人は!?」
振り向くと、慌てて駆け出す生徒たちの間から呆然と立ち尽くすデズモンドの姿が見えた。セイラの丸い顔と珊瑚色の髪は、見えなかった。




