ベルリアンヌ嬢の思慮
――へえ、貴方がベルリアンヌ様? セイラでーす、よろしくお願いしまーす――
不意にあの下品で不作法な声が頭をよぎり、ベルリアンヌは詩集をパタンと閉じた。
「ベルリアンヌ様?」
取り巻きの一人が訝しげな声を上げる。トラナキアの白薔薇と名高い公爵令嬢ははっと顔を上げ、そして微笑んでみせた。
「まあ私としたことがごめんなさい。少々嫌なことを思い出してしまいましたの」
それだけでおおよそ察しがついたらしい取り巻きは露骨に顔をしかめる。そこそこかわいい顔が台無しだ。
「やはりあの、子爵れ――」
ベルリアンヌは人差し指をそっと唇に当て、言葉を遮った。
「口は慎みなさい」
トラナキア皇国の将来を背負って立つ若者たちを育てるアカデミーは今、うっすらと不穏な空気に包まれギスギスしていた。全てはこの春入学してきた、たった一人の田舎娘のせいだった。
その小娘の名はセイラ・ラザフォード。ラザフォード子爵家の庶子であり、病で亡くなった嫡子の代わりに家を守るべく育てられたはずの少女だ。だが、セイラは貴族の一員としてのマナーや品性をろくに備えておらず、その不出来さからたちまち新入生の中で悪目立ちするようになった。挨拶も礼もろくにしない、物は乱暴に扱う、そこらの町娘にも劣る品のない言葉遣い……ラザフォード家はどういう教育をしているんだと言いたくなるほどの酷さである。
そればかりか――なんという身の程知らずだろう。彼女はこの国の皇太子アルバートをはじめとする皇族や上位貴族に馴れ馴れしく近づき、親しくなろうとし始めたのだ。伯爵家や公爵家の人間ともなると、同じ身分の相手とでも初対面の際は礼を尽くし手順を踏みゆっくりと親しくなっていくのが普通である。しかしセイラは子爵家令嬢という不相応な身分にもかかわらず、許嫁もいる彼らにしつこく絡みまるで遠慮をしない。くねくねと媚びた振る舞いをして腕までとろうとするのだから、『ラザフォード家は息女を貴族ではなく娼婦に育てた』という謗りも仕方のないことだろう。
だが、それだけなら頭が足りない迷惑者が迷い込んだというだけでそこまで大きな問題ではない。いずれセイラが学園からも貴族社会からも見限られ放逐されてそれで終いだ。最大の問題は、尻尾を振られた皇太子や貴族令息たちがどういうわけか娼婦紛いの小娘に靡き、許嫁たちを差し置いてチヤホヤし始めたことにある。許嫁たちからすれば不誠実極まりないので当然苦言を呈すのだが、セイラが反省しないのはもちろん男たちも耳を貸さないのだ。『親に決められた結婚とは違う真実の愛』『身分が違うというだけで何故分かり合おうとしない』『自由なセイラに嫉妬したからといっていじめるな』……などなど、ズレた反論を繰り返し取りつく島もない。
教員が注意をしても改善される様子はなく、セイラとその取り巻きと化した貴公子たちは増長していくばかり。まともな判断力がある者は皆皇太子らと距離を置き、今や学園内は『セイラと取り巻きと取り巻きの取り巻きたち』と『それ以外』に二分されている。
「本当に、アルバート殿下は何をお考えなんでしょう。ベルリアンヌ様を差し置いてあんな子爵令嬢とお茶をするなんて!」
「セイラ嬢はスコーンすらお行儀よく食べられない方なのにねぇ。殿方のお気持ちは時々こちらの想像を超えてきますわ」
「殿下は幼い頃から珍しい物や動物がお好きだから。興味がおありなのでしょう」
読書を諦め、息巻く令嬢たちを宥めながらベルリアンヌは考えを巡らせていた。確かに学園の現状は気に入らない。
許嫁のアルバートに関しては正直どうでもよかった。国を統治するにあたって良好な関係でいられるならその方がいいとは思う。だがあの男はセイラが来る前から将来の皇帝にしては少々未熟で子供っぽいところが目につき、どうにも愛情を持ちづらかった。いずれ事が露見し、ご両親である皇帝皇妃両陛下にきっちり叱責されればいい。多少は良い薬になるだろう。
そんなことより気がかりなのは、学生たちが皇太子らを白眼視し自分たち許嫁側に寄り集まってきている現状の方である。おかげでこの学び舎は、最早内乱前夜のような雰囲気だ。蔑ろにされた許嫁の令嬢たちをお茶会に招いて色々話を聞いたところ、皆今回のことで各勢力の関係が悪化することを懸念していた。学生同士のトラブルを火種に国が戦火に包まれることは避けねばならない。この身分に生まれついた以上、自分らには責任があった。
そろそろ、手を打つ時だろう。
ベルリアンヌは読書会のお開きを告げて、寄宿舎の自室に向かって一人歩き出した。書くべき手紙が山ほどある。両親からの許しが出次第、お茶会をまた開いて許嫁たちに協力を要請しよう。それと、課題について質問したいとでも言って各教科の先生の部屋を訪ねておかねば。今のままでもあちらの味方をすることはないだろうが、心象を良くしておいて損はない。
これからすべきことを列挙し予定を立てる彼女の足取りは軽かった。自室に戻るまで偶然誰ともすれ違わなかったが、もしすれ違った者がいたならその鮮烈な赤色の瞳がいきいきと楽しそうに輝いているのを見て驚いたかもしれない。
セネット公爵令嬢、ベルリアンヌ。白銀の髪と肌、紅玉の瞳を持つトラナキアの白薔薇。外見内面ともに万年雪を戴くトラナキア山脈のように鋭く冷たく揺るぎない姫君は、こうしてあれこれと謀略を考え計画を立てることが好きだった。
とある作り話の中では健気な子爵令嬢を追い詰め排除しようとする高慢で冷酷な悪女だったが、当然誰も知る由もなかった。
ただ一人を除いては。




