番外編 出会い離れて結ばれる
「ようこそ王立学園へ。私はグランバルト公爵家長女、リリアン・ソフィー・グランバルトと申します。ユースタス殿下にお目にかかれて大変光栄です」
本校舎の入り口でそう言って丁寧に礼をしてくれたのが、ユースタスが初めて見たリリアンの姿だった。夜空のように深い黒色の髪がちょうど吹き抜けた春風に靡いたのを覚えている。
リリアンはとにかく聡明で思いやりがある人だった。施設の案内、学園生活の説明、その他のことも質問すれば分かりやすく教えてくれた。取り入るために寄ってくるわけでもなく畏れて媚びへつらうわけでもない。ただ留学してきた学友として接し親切にしてくれた彼女を、当然ユースタスは快く思った。やはり留学先の親切な同級生として仲良くしたいと、そういう気持ちなのだと思っていた。
「殿下、近頃リリアン様と親しいですね」
共に留学してきた未来の宰相候補であるルシアンにそう言われるまでは。
「ご承知でしょうが、リリアン様はミハイル王太子殿下の婚約者です。ご学友として親交を深めるのはもちろん素晴らしいことですが、誤解を招くようなことのありませんよう」
そう言われてユースタスは一瞬言葉を詰まらせた。傍目にも分かるほどリリアンとの距離を縮めてしまっていたなんて、自覚がなかった。当然この優れた観察眼の持ち主が言う通り、あらぬ噂が立たぬよう適切な距離を保って接しなければならない。最悪の場合、両国間に亀裂が走ることになる。
分かっているが、心にちくりと棘が刺さった。
「いつ気づいた?」
「確信したのはつい先日です。天体観測会の時、星よりリリアン様のお顔をご覧になっていました」
ルシアンはふふふと笑った。ユースタスの顔が羞恥で熱される。
「大丈夫、辺りは真っ暗でしたから私以外には見えていませんよ。これから気をつければ良いのです」
「……そうだな」
彼女は未来の王妃、自分は隣国の王太子。決して踏み越えてはいけない一線がある。ユースタスはそれを己の胸に刻みこんだ。話しかけてもそっけない婚約者の態度に寂しそうな顔をするリリアンのことは、出来るだけ思い出さないようにしながら。
翌日からもリリアンの態度は全く変わらず、優しく理知的だった。ユースタスの留学生活が非常に有意義なものとなったのは、間違いなくリリアンの功績だった。
月日はあっという間に過ぎていき、いよいよユースタス一行の帰国の時が近づいてきた。学園側の厚意で盛大な送別会が開かれ、生徒も教職員もこの日ばかりは着飾って食べ、飲み、踊った。
「ふう……」
夜が更けるにつれより一層華やぎ盛り上がる宴を、ユースタスは一旦抜け出した。気分を害したとかつまらなかったわけではない。むしろ賑やかで楽しい宴だからこそ終われば訪れる別れの寂しさが強く胸に兆して、一人になりたくなったのだ。
もうすっかり見慣れた白い大理石の柱たちの間を抜け、広い中庭に出る。宴会場の音楽や人の気配はほぼ届かず、僅かな風の音だけがユースタスを優しく迎えてくれた。
「あっという間だったな」
黒い天鵞絨のような芝生に踏み出し、ユースタスは静かにこの学園での思い出に浸った。数々の授業、夕食の時間を告げる鐘、剣術の大会のあの張りつめた空気。遠乗りで駆けた川沿いの道、故郷よりずっと寒くて驚いた冬の朝、礼拝堂のステンドグラスに描かれた神々しい聖女。
「ユースタス殿下?」
不意に彼女の声が聞こえ、ユースタスは思い出の中から引き戻された。果たせるかな、振り向いた先にはリリアンが立っていた。たった一人で、遠慮がちに見つめてくる。ユースタスの心臓が胸を突き破らんとばかりに大きく強く脈打った。
「すみません、物思いに耽っていました。貴方も外の空気を吸いに?」
「ええ」
リリアンは安堵したような笑みを咲かせた。こちらの邪魔をしたかと心配していたようだ。可憐だ、とユースタスは思った。甘い雫が一滴心に落ちた。
「少々頬が火照ったので冷まそうと。まさか先客がいると思わなくて、驚いてしまいました」
リリアンがそう言ったきり会話は途切れた。こんなことは初めてだった。いつもならリリアンが次々に興味深い話をしてくれて、こちらの言葉を受けてさらに広げてくれるのだが。乾いた風が吹き抜けて、出会った時のようにリリアンの髪を靡かせた。
「……寂しくなりますね」
小さな声だったが、確かにリリアンがそう言ったのが聞こえた。
「リリアン様」
ユースタスは動けなくなり、ただ彼女の名前を呟いた。目の前で、リリアンは微笑んでいる。先ほどの安堵は引っ込み、寂しげに儚げに。手を伸ばせば届きそうな距離だった。何かを言えば届きそうな顔だった。
だが。
「私は生涯忘れません。この学園のことを。同じ生徒としてリリアン様たちと過ごした今までのことを」
ユースタスは口角を上げ、ただそれだけ言った。リリアンの微笑みは変わらなかった。
「リリアン様、本当にありがとうございました。私は先に会場に戻ります」
深く長く頭を下げ、ユースタスは中庭を後にした。リリアンのそばを通る時、彼女が振り向いて見送る視線を背中に感じた。だが振り返らない。彼女はこの国の王妃になる方だ。その未来にひびを入れれば、結局彼女を不幸にする。
将来ブルクスタの王とディタイトの王妃として会うことがあっても、これほど近くで親しく話すことはもう出来ない。ユースタスは唇を結んだ。これでお別れだ。
この時は、そう思っていた。
「殿下。ディタイト王国で起きた騒動の件ですが、全面敗訴したミハイル殿下は廃位。さらに数々の不実を理由に正式に婚約解消されたとのことです」
入室してくるなりルシアンはまくし立て、ユースタスの目を見てきた。
「いかがなさいますか」
「いかがなさいますか、とはどういうことだ?」
戸惑って聞き返すと、冷静な知恵袋は答えた。
「現在、リリアン様に婚約者はいません。殿下にもお相手はいません。いかがなさいますか」
時が止まったような気がした。
「……ルシアン、まさか」
「私としては、他の有力者が接触する前にディタイト王国に向かいリリアン様に求婚すべきかと」
ユースタスは目を見開いた。こんな、こんな都合のいいことが起きていいのだろうか。まるでお伽噺のようじゃないか。頭が現実についていけずぐらぐらする。椅子に座っていなければよろけていただろう。そんなユースタスを見つめながら、ルシアンは笑った。
「留学中に私が殿下を止めたのは、リリアン様が王太子殿下の婚約者だったからです。その王太子がリリアン様を裏切り失脚し、婚約が白紙となった今止める理由はございません。後は殿下のご判断に従うのみです」
いつもは表情の乏しいルシアンの温かい笑顔はユースタスの心を支え、背中を押した。椅子から立ち上がり、背筋を伸ばす。
「父上に話を通してくる。必ずディタイト王国に向かうから、もう今から支度を始めてくれ」
「御意」
受け入れられるかは分からない。思い上がった自分が独りよがりな愛をぶつけてしまうだけかもしれない。断られたら立ち直れるか分からない。だが、それでも想いを伝えたかった。自分はリリアンを大切にすると誓いたかった。本来なら一生伝えることさえ出来なかったのだ。
ユースタスはマントを翻し、歩きだす。あの夜すれ違ってから遠く離れた大切な人のもとへ向かうために。筋書きにない結末を手に入れるために。




