番外編 種馬は離宮にて悔やむ
あの日、彼女はあどけない顔でニコリと微笑み、ドレスの裾を摘んで礼をした。
「はじめましてミハイル殿下。わたくし、グランバルト家の長女リリアンと申します」
七歳の春。初めての顔合わせとして引き合わされた時に見たその姿が、ミハイルの中で最も古いリリアンの記憶である。未来の婚約者だと言われても当時はピンとこなくて、他に覚えていることはほとんどなかった。
そんな婚約者とよく顔を合わせるようになったのは、共に王立学園に入学してからだ。彼女は未来の王妃である自覚が強いのか、こちらを見つける度積極的に話しかけてきた。朝焼けが綺麗だった、読んだ本が興味深かった、体調はどうか、この課題についてどう思うか……リリアンの話はどれもこれも、ミハイルの興味を引くものではなかった。こちらはきちんと授業を受け課題を解き成績もいいというのに、『放課後勉強会を開くのでよければおいでになってください』としつこく誘ってくる。カードゲームや玉突きなどの遊戯に誘ってみても、いくらも遊ばないうちに『これ以上遅くなっては明日に障りますから』と切り上げてしまう。その為人のつまらなさにミハイルは失望し、彼女を遠ざけるようになった。
「あっいたいた! ミハイル様ぁ、会いたかった!」
ある時急に懐いてきた光の乙女カティアは、少々軽薄で頭の悪いところはあるもののミハイルの欲望を満たすには十分の娘だった。彼女はこちらの誘いを断らない。口うるさくもない。リリアンを疎ましく思っている点でも気が合った。カティアとの交流は卒業後も続き、ミハイルは次第にカティアを側室に出来ないかと考えるようになった。
「ミハイル殿下、近頃カティア様とのご予定が多すぎませんか? 殿下には王太子としての、カティア様には光の乙女としてのお勉強があります。あまり長時間は……」
しかしリリアンはミハイルとカティアが親しくすることにも苦言を呈してきた。今になって嫉妬か? もう遅い。ミハイルは引き返さなかった。この頃にはもう、周囲をよく見ることが出来なくなっていたのだ。
「嬉しい……ミハイル様が私を選んでくださるなんて」
側室どころか正妃としてカティアを迎えたい。薔薇が咲き誇る庭園でそう伝えた時、彼女は満面の笑みを浮かべた。
「ミハイル殿下……残念です」
蕩けるようなあの笑顔の後ろに絶望的な破局が控えていたことに、気がついたのはすべて終わった後だった。
そこで目が覚めた。
「ミハイル様、おはようございます」
起き上がると寝台のそばに控える侍従たちが一斉に頭を下げた。ミハイルはぼんやりと瞬きし、隣を見る。二人は寝転がれるだろう広い空間には誰もいない。
「陛下は既に起床なさっています」
その言葉でミハイルは現実に引き戻され、項垂れた。
ここは海に囲まれた島国シャサラード。そしてミハイルは王太子ではなく、世継ぎを作るための種馬だ。
「お着替えをいたしましょう」
侍従たちは無駄なく淡々と己の仕事をこなし、ミハイルを整えていく。言動は丁寧で完璧だが、かける言葉も礼も必要最低限のものしかなかった。この数年間ずっとそうだ。彼らはこれが仕事だからこなしているにすぎず、それを他の感情で包むことをしない。
『お世継ぎのためとはいえ、罪のない婚約者を陥れようとした男など迎えて大丈夫なのだろうか』
『そのような男だからこそだ。陛下は若者の未来を食い潰してまで世継ぎをお産みになることにこだわらなかった。だが、そもそも未来のない落伍者なら気にする必要はない。ミハイル殿下は陛下に拾われたことを感謝すべきだな』
婿入りした直後に耳にした会話が蘇る。王配とは名ばかりの男娼を気にかける者などいない。この国の人々が自分に求めているのは女王と一人でも多く子供を作ることだけ。女王の伴侶としても王族としても、最初から期待されていない。それがこんなに堪えるものだとは知らなかった。
「……はあ」
豪華絢爛な食堂で一人遅めの朝食を済ませれば、後は昼食まで自由時間だ。ミハイルは昨日や一昨日と同じように離宮のテラスに出て、深い溜め息を吐いた。形だけの王配に回される政務はほとんどなく、誰が訪ねてくることもない。こうして日がな一日ぼうっとしていても、朝から晩まで玉突きに興じていても、気にも留められない。
ひんやりとした風が吹き抜け、ミハイルの髪を揺らす。幼い女の子のはしゃぐ声が聞こえた。リータだ。王家待望の第一子。終始イライザ主導の行為の末に生まれた、ミハイルの娘。その下にもう一人生まれたばかりの息子がいるが、見れば望まぬ同衾を思い出すので顔を合わせた機会は数回しかない。教育に悪いとでも思われているのか、周りもミハイルが子供たちに会うことにあまりいい顔をしなかった。
――リリアンは今頃、我が子を抱いているのだろうか。そんなことをふと思った。自分と婚約解消した後、ブルクスタの王子と結婚した彼女。昨年男の子を産んだという彼女。あの日法廷でミハイルを見つめ、残念だと一言言った彼女。
「……くっ」
この上なく惨めな気持ちになり、熱い涙が頬を伝った。リリアンは賢明だった。自分は愚かだった。結果二人の人生には天と地ほどの差がつき、もう許しを乞うことすら出来ない。リリアンの言葉をちゃんと聞くべきだった。カティアなんかに目移りするんじゃなかった。今更悔やんでも遅い。自分は廃位した。リリアンは遠くで幸せになった。
「うっ、くっ……あああ……」
ミハイルが後悔に泣き崩れても、控える護衛や侍従は身動き一つしなかった。笑ったり責めたりはしない。だが慰めることもしない。ただじっと立ったまま、嗚咽する背中に視線を注ぎ続けるだけ。
何年もずっと隣にいてくれた人の気持ちを無碍にし続けた結果、誰にも隣に立ってもらえなくなる。それがミハイルへの報いだった。
ストックが尽きたので毎日投稿は恐らくこれで終わりです。
あといくつか番外編を書いた後、別のヒドインの話に移ります。




