T-003
2Fから1Fへ戻ると、空調の音がわずかに遠のいた気がした。
1Fの廊下は、2Fの作業場のような熱気がない分、ひんやりとした静寂が足元から這い上がってくる。
私はポケットから、先ほど手に入れた七本の鍵束を取り出した。
指先に伝わる金属の重みと、カチカチと触れ合う乾いた音だけが、この無人のはずの空間で唯一の現実味を持っている。
廊下を進む。右側に一つ、左側に一つ。突き当たりには二つの扉が並んでいる。
まずは左側の扉から試すことにする。
一本目、二本目と試すが、鍵穴の奥で何かが拒絶するように撥ね返される。
三本目。鍵を差し込み、手首を軽く捻る。
カチャリ、と小気味よい手応えとともに、デッドボルトが引き込まれる振動が指に伝わった。
私はノブを掴み、慎重に手前へと引いた。
すぐにスイッチを探そうとして、指が止まった。
窓がない密室とはいえ、扉の隙間から廊下へ、そして外の通りへと光が漏れるリスクを冒すわけにはいかない。私は壁際のスイッチから手を離し、スマホのライトを極限まで絞って、その細い光の束で暗闇を切り裂いた。
ライトの円形が床から壁へと移動するたびに、闇の中から家具が唐突に姿を現し、またすぐに背後の虚無へと沈んでいく。
そこは、応接室だった。
十畳ほどの空間の中央に、重厚な木目調の長机。それを囲むように、黒い合成皮革の椅子が三脚。
2Fの作業場やキッチンで見られた、あの徹底して「今」を維持しているような異常な清潔さが、ここにも満ちていた。
だが、これまでの場所とは決定的に違う点がある。
不自然なほどに、何もない。
椅子は机に対して完璧な角度で収まっており、埃一つ落ちていない。
机の表面は鏡のように滑らかで、コーヒーカップの跡も、ペン先が走った傷も、書類を擦った形跡すら見当たらない。
壁際のスチール棚にライトを向ける。
数冊のファイルが並んでいたが、中身は白紙か、あるいはこのビルの設備の取扱説明書の類だった。
誰かがここで何かを思案したり、議論したりした痕跡はどこにもない。
ここは、誰かを招き入れるポーズだけを整え、機能することなく放棄された、死んだ空間だった。
私は息を殺しながら、机の引き出しに手をかけた。
一段目を開ける。
そこには、ビニール袋に入ったままの新品のボールペンと、封も切られていない付箋の束が、文房具店の商品棚のように並んでいた。
誰かがこれを使って文字を書く光景が、どうしても想像できない。
二段目を開ける。
そこには、茶色の小さな封筒が一つだけ、ぽつんと置かれていた。
封筒を持ち上げると、中に硬い感触があった。
封を切り、中身を掌に振り出す。
現れたのは、これまでの七本の鍵束とは、その設計思想からして全く異なるキーだった。
金属製ではあるが、持ち手には滑り止めの細かい加工が施され、先端は円筒状に複雑な溝が刻まれている。
これまでの物理的なシリンダーを回すための鍵ではない。
もっと、機械的なシステムを起動させるための、特殊な制御キーだ。
脳裏に、1Fのエントランス横に鎮座していた、あのがっしりとしたエレベーターの扉が浮かぶ。
ボタンの横に埋め込まれていた、あの独特な鍵穴。
「……これか」
なぜ、こんな重要な鍵が、誰も使った形跡のない応接室の引き出しに、これ見よがしに遺されていたのか。
宛名も差出人もない封筒。
それはまるで、外からやってきた私がここを開けることを、あらかじめ計算に入れて用意されていたかのようだ。
部屋を見渡す。
完璧に整頓された椅子。主の気配を徹底的に排除した、空虚な空間。
この場所自体が、入ってきた者をさらに奥へと誘い込むための、精巧な案内板に過ぎない。
私は新しい鍵をポケットにねじ込み、応接室を後にした。
背後で扉が閉まると、再び廊下に重苦しい静寂が戻った。
残るは右側の扉。
そこには、この作り物のような清潔さとは違う「何か」が残されているのだろうか。




