表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/11

T-015

作業場からキッチンは、断絶なく地続きになっていた。


生活の匂いがしない。焼いた油の爆ぜる音も、沸き立つ湯気の湿り気も、ここには存在しない。


ただ、冷え切った冷蔵庫が一台、沈黙する一口のコンロ、そして虚無を孕んだシンク。


それは「生活」を営むための場所ではなく、個体を生存させるための「維持装置」としての印象を色濃く放っていた。


冷蔵庫の扉を開ける。漏れ出した冷気が、死体のような冷たさで指先に絡みついた。

中身は、徹底して空だ。新品同様の輝きを保つ調味料のボトルが数本と、製造直後のような光沢を残した缶詰が一つ。

何年も放置されているはずなのに、埃一つ、指紋一つついていない。その「新しさ」がかえって、時間の感覚を狂わせる。

「……誰かいたのは、確かなんだよな」


独り言が、無機質な空間に吸い込まれて消える。

シンクを確認する。水垢どころか、水滴の一滴すら残っていない。

使われていた形跡があるのに、使われたことによる「衰退」が一切見当たらない。


棚の扉を引くと、一点の曇りもない数枚の食器と、昨日棚に並べられたかのようなインスタント食品の袋が、軍隊のような正確さで整列していた。


--


棚の奥、食器の影に、異質な白が挟まっていた。


意図して隠されたのか、あるいは世界の理から零れ落ちてそこに紛れ込んだのか。

指先で引き出し、折り目を広げる。


やはり著者はErystela。呪いのように反復される文字列。


活字を追い始める。

「AIによる理論生成」「記号のインフレ」「普遍的評価軸の崩壊」。

難解な術語が網膜を滑り、脳の深層へと直接沈殿していく。先ほど作業場で目にした断片と同じ、既存の倫理を解体するような構造。


中ほどまで読み進めたところで、指が止まった。


何を言っているのかは、本能的に理解できる気がした。

いや、「理解」というよりも、脳内の空隙にその理屈がぴったりと嵌まっていく感覚に近い。

だというのに、核心を掴もうとすると、意味は霧のように霧散する。


言葉の輪郭は明瞭なのに、それらが指し示す全体像が、生理的な嫌悪感を伴って拒絶される。


「……この人、一体何をしたかったんだ」


紙を折り畳み、逃げるようにポケットへ押し込んだ。

捨てるべきだという理性が、何故か「それは自分の一部だ」という奇妙な納得感に上書きされる。


--


キッチンをもう一度、ゆっくりと見回す。


冷蔵庫、コンロ、シンク、棚。

必要な機能だけが剥き出しになり、余分な人間味が徹底的に排除されている。


生活の痕跡はある。しかし、そこで呼吸をしていたはずの人間の気配だけが欠落している。

あまりに綺麗すぎて、まるで「誰かが使う直前の展示品」のようだ。あるいは、時間を止める術を知っている者の仕業か。


「出ていったのか、それとも……」


問いを口にしても、帰ってくるのは自らの心拍音だけだ。

ふと視線を転じると、窓の外は既にどろりとした闇に塗り潰されていた。


夜が、部屋の隅々から静かに、確実にせり上がってきていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ