T-015
作業場からキッチンは、断絶なく地続きになっていた。
生活の匂いがしない。焼いた油の爆ぜる音も、沸き立つ湯気の湿り気も、ここには存在しない。
ただ、冷え切った冷蔵庫が一台、沈黙する一口のコンロ、そして虚無を孕んだシンク。
それは「生活」を営むための場所ではなく、個体を生存させるための「維持装置」としての印象を色濃く放っていた。
冷蔵庫の扉を開ける。漏れ出した冷気が、死体のような冷たさで指先に絡みついた。
中身は、徹底して空だ。新品同様の輝きを保つ調味料のボトルが数本と、製造直後のような光沢を残した缶詰が一つ。
何年も放置されているはずなのに、埃一つ、指紋一つついていない。その「新しさ」がかえって、時間の感覚を狂わせる。
「……誰かいたのは、確かなんだよな」
独り言が、無機質な空間に吸い込まれて消える。
シンクを確認する。水垢どころか、水滴の一滴すら残っていない。
使われていた形跡があるのに、使われたことによる「衰退」が一切見当たらない。
棚の扉を引くと、一点の曇りもない数枚の食器と、昨日棚に並べられたかのようなインスタント食品の袋が、軍隊のような正確さで整列していた。
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棚の奥、食器の影に、異質な白が挟まっていた。
意図して隠されたのか、あるいは世界の理から零れ落ちてそこに紛れ込んだのか。
指先で引き出し、折り目を広げる。
やはり著者はErystela。呪いのように反復される文字列。
活字を追い始める。
「AIによる理論生成」「記号のインフレ」「普遍的評価軸の崩壊」。
難解な術語が網膜を滑り、脳の深層へと直接沈殿していく。先ほど作業場で目にした断片と同じ、既存の倫理を解体するような構造。
中ほどまで読み進めたところで、指が止まった。
何を言っているのかは、本能的に理解できる気がした。
いや、「理解」というよりも、脳内の空隙にその理屈がぴったりと嵌まっていく感覚に近い。
だというのに、核心を掴もうとすると、意味は霧のように霧散する。
言葉の輪郭は明瞭なのに、それらが指し示す全体像が、生理的な嫌悪感を伴って拒絶される。
「……この人、一体何をしたかったんだ」
紙を折り畳み、逃げるようにポケットへ押し込んだ。
捨てるべきだという理性が、何故か「それは自分の一部だ」という奇妙な納得感に上書きされる。
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キッチンをもう一度、ゆっくりと見回す。
冷蔵庫、コンロ、シンク、棚。
必要な機能だけが剥き出しになり、余分な人間味が徹底的に排除されている。
生活の痕跡はある。しかし、そこで呼吸をしていたはずの人間の気配だけが欠落している。
あまりに綺麗すぎて、まるで「誰かが使う直前の展示品」のようだ。あるいは、時間を止める術を知っている者の仕業か。
「出ていったのか、それとも……」
問いを口にしても、帰ってくるのは自らの心拍音だけだ。
ふと視線を転じると、窓の外は既にどろりとした闇に塗り潰されていた。
夜が、部屋の隅々から静かに、確実にせり上がってきていた。




