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T-008


固く閉ざされた3Fとは異なり、2Fの階段扉はあっけなく開いた。

そこは1Fとは質の異なる静止した空間だった。


窓はすべて遮光カーテンで塞がれ、部屋の明かりは非常灯だけだ。目が慣れるまで少し時間がかかった。

左手の奥にはサーバーラックが鎮座し、無数のインジケーターが深海魚の眼光のように不規則に明滅を繰り返していた。


一歩踏み出すと、空調の低い動作音に混じり、冷却ファンの細かな振動が靴底を通じて伝わってくる。

電源が入っているということは、誰かが管理している。あるいは、誰かがまだここにいる。


恐る恐る近づいてみると、事務机の上にはワイドモニターと、床を黒い蛇のように這い回る配線の束。

スクリーンセーバーの幾何学模様が音もなく揺曳する様は、覗き見ようとする私の指先を、本能的な拒絶感で足止めさせた。


数枚のA4用紙が無造作に机の上に置かれていた。

誰かが内容を確認するために置いたかのような、生々しさがいまだ存在しているかのようだ。


私はその一番上の紙に、吸い寄せられるように視線を動かした。


--

T-008

Author: Erystela Thevale


ネットの深淵で、一部の熱狂的な信奉者やオカルトマニアの間で囁かれている名前だ。

既存の倫理観や認知システムを根本から否定する独自の理論を提唱し、ある日突然、全ての社会的記録から姿を消した正体不明の理論家。

その理論に深く触れた人間は、例外なく人格が変容し、蒸発するように行方をくらますという都市伝説の主役。


単なる噂だと思っていた。あるいは、誰かが作り上げた架空の存在だと。

だが今、私の手の中にあるこの紙束は、その人物が実在し、かつて、あるいは今この瞬間も、この「見えないビル」を拠点に研究を続けている動かぬ証拠だった。



読み始めようとした瞬間、思考が泥沼に足を取られた。


評価軸という単語が呪文のように紙面を埋め尽くしている。

後半のページには数字が振られた緻密な階層表が添えられ、崩壊、という言葉も出てくる。


メタ認知……?


自分の行動を客観的にみること?

この表が示しているのは、さらなる先入観の排除、あるいは認識そのものの解体だろうか。


「……なんだ、これ」


震える手でもう一枚めくると、また別の不穏なタイトルが目に飛び込んできた。著者名はやはり同一人物が記されている。

単語の一つ一つは認識できるのに、それらが結合した途端、意味の輪郭が指の間から砂のように零れ落ちていく。


私は耐え難い居心地の悪さを覚え、その紙を元の位置に、一ミリの狂いも許されないような緊張感を持って戻した。


--


脳が理解を拒絶するなんてネクロノミコンのようだ。

2つの都市伝説が重なっている可能性が出てきた。


自分の鼓動が頭の中に鳴り響く。

私はあふれ出す好奇心を抑えるように、倫理観を押し込めた。


気持ちを落ち着けるように視線をさげると、机の脇にある二段式のワゴンが目についた。

上の引き出しは空。下の段はどれだけ力を込めても、鍵がかかっていてびくともしない。

壁際のスチール棚に並ぶ背表紙のないファイルや小引き出しも、同様にすべてが頑なに口を閉ざしていた。



絶え間なく膨大なデータを処理し続けるサーバー。スリープ状態で誰かの帰還を待ち続けるPC。そして、机の上に遺された「理論」の断片。

Erystelaに関わる何かがここに存在することは間違いない。

その核心だけが、物理的な錠前と、難解を極める言葉の迷宮によって執拗に隠し通されている。


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