T-019
3Fの廊下へと踏み出す。
2Fまでの、あの肌を刺すような電子機器の排熱や、1Fの凍りついたような空気とは違う。
ここには、微かにだが生活の残滓が漂っていた。
まずは右側の扉に手をかける。抵抗なく開いた。
そこは、風呂場だった。
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ライトの光の中に、白い陶器の洗面台、曇り一つない鏡、そして小ぶりな浴槽が浮かび上がる。
2Fの作業場と同様、ここも異常なほどに清潔だ。
だが、棚に一枚だけ、角を揃えて畳まれたタオルが置かれているのを見て、私は奇妙な安堵を覚えた。
ここは、理論や記号の場所ではない。肉体を持つ人間が、その汚れを落とし、休息を得るための場所だ。
鏡の前に立ち、無意識に自分の顔を覗き込む。
スマホのライトに照らされた自分の瞳は、思ったよりも澄んでいて、疲労の色は見当たらない。
それがかえって、現実感を遠のかせる。
「……まあ、いいか」
不思議と、焦りはなかった。
今の私には、このビルの階層を一つずつ紐解いていくことの方が、生存に直結する重要事項のように思えたからだ。
洗面台の下の収納を開けると、使い込まれた清掃用具が整然と並んでいた。
著者は、この場所を自分の手で維持していたのだ。
2Fで難解な理論を綴り、世界を解体しようとしていたその手で、浴槽の縁を磨き、鏡の曇りを拭き取っていた。
湯船に浸かっている間、何を考えていたのだろうか。
極限まで研ぎ澄まされた理論の続きか。それとも、ここだけは全てを捨て去り、ただ温かな水の感触に身を委ねていたのか。
答えは出ない。だが、そのどちらであっても、今の私には納得できる気がした。
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風呂場を出て、廊下に戻る。
ここまでの断片を、頭の中で一列に並べてみる。
地図に載らないビル。稼働し続けるサーバー。難解な理論文書。
途絶えたノートの記録。隔離された私物。×印のついたUSB。
そして、かつてここを訪れたはずの、姿を消した人間たち。
これら全てが、一人の意志によって配置されている。
「……会えるかもしれない」
そう思った瞬間、全部が繋がった気がした。
断片だったものが、一本の線になった。
地図に載らないのは意図的だ。鍵の配置も意図的だ。理論文書がいたるところにあるのも。
USBに×印をつけて隠したのも。物置に私的なものを封じたのも。
全部、設計されている。
「この人は、まだここにいる」
確信があった。
論理的な推論ではない。だが、私の思考そのものが、誘導されているという実感があった。
著者は消えたのではない。このビルという構造体そのものに変質し、私の訪れを待っていたのだ。
私は、奥の扉の前に立った。
この向こう側に、Erystela Thevaleという「答え」があるはずだ。
震える指先で、私はノブに手をかけた。




