第5話 母娘
その道は進めば進むほど暗闇が深くなった。
道の両側で浮かび上がって光る朱色の中華提灯だけがその周囲を不気味に照らしている。
寿々の目にはその様子と、その行く先がはっきりと視えていた。
「・・・・・」
「寿々さん、さっきから黙って歩き続きていますが、大丈夫かしら?」
寿々の後ろに付いて歩く迦音と史は寿々の視えている世界が見えていない。
迦音はどんどんと淀んだ邪気に塗れてゆくのを全身で感じ鳥肌を立てたが、視覚的にそれを捉えられてはいなかった。
「大丈夫だとは思う・・・ただあまり深追いして、向こうの罠にかかったりしなければいいんだけど」
二人と違って左手の薬指を盗まれている史は呪力そのものを封じられ、その景色はいつもと変わらない普通の小路にしか見えていなかった。
ただやや残っている浄化の力のおかげで、今この一帯が呪術師によって結界のような領域へと変えられている事だけは何となく理解していた。
ゆっくりとだが、確実に向こうの思惑通りに誘われ。
歩く足元に急に嫌な感触が当たり寿々はその場で立ち止まった。
ヌチャリ・・・・
寿々は自分の足の下で潰れた気色の悪い何かを凝視した。
「ひっ!!」
それは何かの臓物のような肉片が赤黒く腐り、それでいて踏みつぶして破裂した被膜から緑色に近い膿のような液体が飛び出している。
丁度大きい芋虫を踏みつぶしたような感覚に近かった。
「寿々さん!?どうしましたか?」
史が寿々に駆け寄り、その青ざめた顔を覗き込んだ。
「史・・・俺、今何か踏みつぶしたりしてないか?」
寿々は怯えながら史に聞いた。
史は言われた通りに寿々の足元を確認するが、持ち上げた右脚の靴の底には何も存在していない。
「・・いいえ、俺の目には何も見えません」
そう言うと、寿々は少しだけ安堵したように短く息を吐いた。
「良かった・・。今俺には周り全てが真っ暗で、中華提灯に導かれる景色しか視えていないんだ。でも俺が視ている映像が本物じゃないというならそれだけで安心できる」
「大丈夫です。俺が隣にいますから」
「あぁ・・助かる」
そう言うと寿々は再び目の前の提灯を辿って先に進みだした。
T字路から600mほど進んだろうか、その間2つ角を曲がった。
辿り着いたのは狭い路地に入った突き当りの一軒家だ。
その家は日当たりこそ悪いが、外観は周りの家々と同じようなどこにでもある分譲住宅のように見えた。
しかし寿々にはその家の周りという周りに悍ましい程の生き物の死骸とその死骸に群がる大量の蛆虫や蠅が視えていた。
玄関先に飾られた中華提灯がそこだけを煌々と照らし、玄関には紅い紙に金色で書かれた〖囍〗が逆さまになって貼られている上に、足元には枯れた蘭の花が何度も何度も踏みつけられてようにグシャグシャになってばら撒かれている。
『う・・・やばい、映像だけでなく悪臭までするようになってきた。・・くっそ、悪趣味すぎるだろ!早く史の薬指を取り戻さないと・・下手すればあの世に届ける為に燃やされてしまう可能性も・・』
寿々は右手で鼻を押さえながら玄関へと近づいて呼び鈴を鳴らそうとしたその時、
ガチャッ!と勢いよく扉が開かれ、中から真っ青な顔をした一人の女性が飛び出してきた。
「!」
はっ、としてすぐに後ろに下がったものの、その女性は勢いよく寿々の右手を鷲掴みにした。
しかしそれと同じ速さで隣にいた史もその女性の手首を制止するために力いっぱいに握り締める。
「・・・ぐふ・・ふふふ」
史の馬鹿力で握りしめているというのに、その女性は全く動じる事も寿々の手を離す事もなくただ不気味に笑いながら史の後ろに目を向け、そして・・、
「おかえり、沙耶」
と気が狂ったような焦点の合わない目のまま、笑顔で史の後ろに立つ迦音が作り出した今井沙耶の人形に向けて話しかけた。
「・・離して・・ください!」
寿々が精一杯の力で女性の手から自分の腕を引きはがそうとするが、女性は全く力を緩める事なく寿々をギロリと睨みつけた。
「お前・・なんでお前が死ななかったんだよ。お前が死んでれば沙耶は死なずに済んだのに!!」
「!!?」
寿々と史はその言葉に驚き、史はまた一瞬にして頭に血が上ったのか、本気で女性の手首を折るつもりで力いっぱい寿々の腕から乱暴に引き剝がした。
「ああ!!」
女性は腕に怪我でもしたのか、引き剥がされた手を庇いながら少しだけよろめいたが、すぐに二人を睨みつけると、何と史の後ろに立っていた迦音が作った今井沙耶の人形を無理矢理掴んで家の中へと引きずり込み、ガチャリと玄関の鍵を閉めてしまった。
「しまった!」
史は鍵が閉められた扉のノブを乱暴に引っ張った。
しかし扉はただ鍵が掛けられただだけでなく、更に呪力で固められているかのようにビクともしない。
「くそ・・・呪符でも貼ったのか全く動かない!」
数歩後ろで見ていた迦音は急いでその史の行動を止めた。
「史、もし近所の人が見ていたら通報されるわよ!」
「通報?じゃあこっちから通報してやる。この家の中に俺の薬指があるのならば、証拠になるだろ?」
先程の寿々への発言でブチ切れた史は頭に血が上っているせいか、まともな思考ではなかった。
寿々はとにかく酷く動揺した精神を落ち着かせようと、深呼吸をする事に集中した。
『・・確かに俺がこの世界に生きて戻れたこと自体があってはならない事なのは間違いない。そのせいで俺だけでなく史の周りの人の人生まで、大きく捻じ曲げているのは多分俺のせいだ・・・・。史に執着し、身勝手に俺や史を刺して傷つける事のできる憎い存在だったしても、もしかしたら俺がこの世界に戻らなければ今井沙耶はまだ生きていたのかもしれない。他人にとってはどれだけ迷惑な存在だったとしても、家族にとっては関係なく可愛い存在なのも当然の話だ。・・でも』
寿々はもう一度だけ大きく深呼吸をすると、そっと史の手を取った。
「・・ひとまず落ち着こう、史」
寿々が冷静にそう言うと史もハッとしたように我に返った。
「今の人は今井沙耶の母親で間違いないか?」
「・・・はい。中2の時今井先輩に刺された後、家に謝罪に来た両親を見ました。顔を見たのは一度きりですが間違いありません」
史は思い出したくもない、そんな苦々しい表情で寿々に答えた。
「史、恐らく今この結界の中では俺達が通報しても繋がらないと思う。それに多分このままでは先に史の薬指が燃やされてしまうかもしれない。俺もこれが名案だとは思わないが、今は残りの浄化の力を使ってこの扉に掛けられた呪符の効果を祓って欲しい」
寿々は真剣な目で史に訴えた。
「わかりました!」
史は返事を返すと即座に右手に残りの力を集中させた。
「それと迦音さん」
寿々は急いで迦音に向き直る。
「え、はい?」
「悪いけれど、この後は俺と史だけで中に入る。迦音さんはここで待っていて欲しい」
「え・・何でですか!?」
急にそんな事を言われ、迦音も動揺せずにはいられなかった。
「俺と一緒にいると、迦音さんの人生にも大きな影響を与えかねない。こういう窮地に陥った時は特にそうだ。我がまま言ってここまで付いて来てもらっておきながら何だけど、これ以上巻き込みたくはない」
寿々は真剣に、しかし真剣な眼差しで迦音に訴えた。
しかし迦音はそれを見て一瞬だけ目を瞑るとキリっとした目つきで寿々を見返えした。
「寿々さん。私の人生は最初から最悪で全て間違っていました。この世に男して生まれた事も、秦家に生まれた事も、呪力によって人生そのものを狂わされてきた事も全部です。・・でもそれを救ってくれたのは間違いなく貴方です。だからもう貴方を欺くような事は二度としたくないんです。あの日、秦の家で祖母から私達を守ってくれた貴方への恩を仇で返したくありません!」
「・・・迦音さん」
そう言うと迦音はすぐに笑顔を取り戻し、
「それに今あの呪術師に対抗できるのは私しかいないじゃないですか?大丈夫です任せて下さい。私の本気を見せてやります」
194㎝の身体を少しだけ屈め、迦音は寿々に向けて軽くウィンクをした。
そんな可愛らしい表情を初めて見たせいか、思わず寿々も笑顔になってしまった。
ガチャリという音がして寿々と迦音はそちらに目をやると、
「開きました。入りますよ!」
浄化の力を使い切った史がそう言って玄関の扉を開いた。
扉を開けるとそこは靴一足も見当たらない殺風景な玄関だった。
・・・しかしそう見えていたのは史と迦音だけで、寿々はその光景を見て再び胃の奥からこみ上げる吐き気に襲われると急いで鼻と口を押えた。
「うぅ!!」
寿々の目には、玄関の土間一面に広がる臓物の肉片と大量の血の海。その上にプカプカと浮きながらもこちらを必死に見ようとする茶色の眼球の数々、そしてまっすぐの廊下にはびっしりと黒く長い髪の毛が敷き詰められている地獄のような光景が視えていた。
「大丈夫ですか?」
今度は隣にいた迦音が心配そうに寿々を気遣う。
「うっ・・だ、大丈夫」
寿々はそのグロテスクな光景に何とか耐えようと必死に呼吸をするが、呼吸をすればするほど悪臭で更に吐き気に襲われた。
どう考えても大丈夫そうには見えない。
しかし寿々は吐き気で涙目になりながらも意を決して中へと乗り込んだ。
「・・・うぐ」
中へ入ると悪臭は更に酷くなった。
しかし脈打つように蠢く黒い髪がまるでこっちだと言わんばかりに階段の上へと続いている。
「2階に・・」
そう言うと寿々は先に入った史を追い越すように階段を駆け上がった。
「寿々さん!?」
史は寿々の様子がキツそうなことが心配で仕方なかったが、とにかく今は自分の指を取り戻す方が先だと考えていた。
指が戻れば呪力も使えるし、そうすれば間違いなく今井の母親にも勝てる自信がある。
駆け上がる寿々から離れないよう史も急いで階段を駆け上がった。
しかし2階の廊下に上がった寿々は再び立ち止まった。
2階にある2部屋の扉のうち左側の扉の下へと髪の毛が続いていたが、寿々の視界にはその扉にも『囍』の紅い紙が逆さに貼られ、扉そのものが脈打つ肉の塊となって立ち塞がっていたのだ。
『くそ・・・この扉にも呪符が貼られているのか?』
寿々は冷や汗をかきながら鼻と口を必死で抑え、震える右手で部屋のドアノブへと手を伸ばす。
その様子を見ていた史はその震える寿々より先に部屋のドアノブを掴んだ。
が、しかしやはり玄関と同様ドアノブはビクともしない。
「ここにも呪符か!?」
内側から貼らてれいるであろう呪符を剝がさないかぎりこの先へは進めそうになかった。
『どうすれば・・・』
今にも吐き出しそうなのを必死で堪えながら、寿々は顔を真っ青にさせるとその身体をぐらりとよろけさせた。
しかしそれを後ろから来た迦音が慌てて寿々の背中にさっと手を伸ばし支えた。
と、その瞬間寿々の脳裏に扉の向こう側の映像が入り込んできた。
「!?」
そこでは今井沙耶の母親が祭壇に向かって膝を着き、首を垂れて長い線香を頭上に掲げ必死になってブツブツと祈祷をあげている様子だった。
祭壇の上には今井沙耶の写真とその目の前には箱に入った史の薬指が置かれている。
「え?・・・これって寿々さんの力ですか?」
しかもその映像は寿々だけでなく寿々を支える迦音にも視えているようだ。
「え・・・もしかして迦音さんにも視えているの?」
顔を真っ青にさせながら、寿々自身もその現象に驚きを隠せなかった。
「はい・・。部屋の中で祭壇に向かって母親が祈りを捧げていますよね?それに・・・これって」
迦音はその映像の違和感にすぐに気が付いた。
「これって・・・多分私が作った人形から見た映像ですよね?」
迦音は信じられないといった表情だ。
「もしかしたら、寿々さんの【未来視】の能力を通して、迦音の呪力で作られた人形が透視的な効果を生んでいるのかもしれない・・」
二人の会話を聞いていた史がそう呟きながら、何かを思いついたようにはっと顔を上げた。
「迦音!」
史は中にいる今井沙耶の母親に聞かれないように迦音にそっと耳打ちをした。
「!・・・・わかった、やってみるわ」
迦音はそう言って目を瞑り、右手で寿々の肩に触れたまま左手に呪力を込めぐっと握りしめた。
「沙耶が1人で苦しまず、あの世で想いを享受させ、共に添い遂げられますように・・これよりその者の一部を天に上げますので、どうかあの子の元へとお運びください・・・」
今井沙耶の母親はそう呟きながら祭壇の下で膝を付き、頭上に線香を掲げながら何度も何度も頭を下げた。
そして立ち上がり線香を祭壇へと掲げようとしたその時、隣で立っていた迦音が作り出した今井沙耶の人形がゆらりと動いたかと思うと、ズルリズルリと纏った紅いチャイナドレスを重く引きずりながら部屋の扉の方へと歩き出した。
「・・沙耶?・・・沙耶!!どこへ行くの!?まだ儀式は終わってないのよ!ちゃんとここにいなさい!でないとあなたちゃんとあの世で幸せになれないでしょ!!」
母親は動揺しながら部屋から出てゆこうとする人形の沙耶に向かって大声を上げた。
今井沙耶の母親は精神が定かではないらしく、娘が亡くなっている事と目の前に人形がいる事全てが混同し、その矛盾にすら気づいていない様子だ。
しかしそれは迦音が作り出した見せかけだけの人形。
当然その声になど反応するはずもなかった。
「沙耶!行っちゃだめ!!沙耶!!」
母親の声は悲痛な叫び声になっていた。
そして急いで線香を灰に挿すとそのまま人形の今井沙耶へと飛びついた。
「ダメよ!それを剥がしたらダメ!!ちゃんと儀式に向き合って!お願いだから!最後くらいちゃんとお母さんの言う事を聞いてよ!」
人形の見せかけだけの今井沙耶へ、奇しくも持ち合わせた呪力のおかげでしがみ付く事はできたが、術を掛けた本人でもないのでその動きを止める事は出来なかった。
「・・・あともう少し!」
扉の向こうで寿々の力を借り、人形の視点で操作していた迦音はそのまま勢いよく扉に貼られた呪符に手を伸ばすとベリッ!という大仰な音と共に破り捨てた。
「史!」
迦音が合図を送ると、史は勢いよく部屋の扉を押し開けた。
バン!!
派手な音と共に188㎝のガタイのいい男が部屋の中へと乗り込む。
その勢いで扉手前にいた今井沙耶の母親はその場に尻もちをついた。
「んぎゃ!」
何とも酷い声を上げたが、史はそれには目もくれず一目散に祭壇の上の置かれた箱を取り上げると、自分の左薬指だけを取り出した。
そしてそのまま自分の左手に押し込んでみたのだが・・・。
「・・・つ・・付かない!?」
一度綺麗に切り盗られた薬指はそう易々と元には戻ってくれなかった。
「くくくく・・・・そんなに簡単に返してやるわけないでしょうが」
今井沙耶の母親はそう言うと、よろけながら史に襲いかかろうと駆けだした。
「やめろ!」
後ろから寿々が母親の洋服に手を伸ばしたが、虚空を掴むだけで母親は前のめりになり足をよろめかせ祭壇に体当たりをすると、そのまま火のついた線香を史の前に勢いよくばら撒いた。
「!!」
途端に部屋の中が火の海へと化した。
「史!!」
史の背後は壁、そして史を囲むように火柱が上がる。
史は全く身動きが出来ない状態に陥ってしまった。
「う・・・」
熱風で喉が焼けそうなくらいに炎の勢いが急激に増した。
「あはははは!!丁度いい!!もういっそうのことそのまま沙耶と一緒に向こうに行ってしまいな!!」
気が狂った母親を憐れみながら寿々はゆっくりと史を取り巻く炎へと近づいた。
「寿々さん!来ないでください!!」
史も熱風に耐えながら必死に寿々を遠ざけようと叫んだ。
しかし寿々はスッと息を吸い込むとその背中に2対の羽を取り出した。
「大丈夫。俺には羽があるから安心しろ史」
その羽は寿々の全身を包み込むように光放ち、炎に触れるそのギリギリでその全てから寿々の身体を守り続けている。
「は?・・・何だお前・・?何で火が勝手に避けている!?」
聖衣にも似た寿々のその羽を、呪術師でしかない今井沙耶の母親は目視することは出来ない。
だからその光景は燃え上がる火柱の方が勝手に寿々を恐れ避けているようにしか見えなかったのだ。
「大丈夫か史?」
「はい。今は視えないですが、羽が守ってくれているんですね?ありがとうございます」
寿々は羽を広げて史を炎の熱から守りながら、手に持った繋がらない左の薬指にそっと手を添えた。
「・・・まさか、再生の力を使うつもりですか??」
史はそれを察して急に左手を後ろに引っ込めた。
「駄目です!やめて下さい。それを秦の家でやったから寿々さんの寿命が消えてしまったんじゃないですか!もうあんな事は絶対に嫌です」
史は怖い顔を、いや怯えるような顔をして壁際へと下がった。
しかし寿々は全く動じる事無く史ににっこりと微笑み、
「絶体に大丈夫だから、俺を信じろ」
と手を差し出した。
「・・・・・」
炎は天井まで燃え上がり、このままでは家全てに火の手が回ってしまいそうだ。
この炎を消すには呪力と浄化の力どちらも使った大祓しか方法はない。
考える時間も拒否をする時間もそこには用意されていなかった。
史は何とか寿々が再生の力を使っても、前みたいに自分の命を削り過ぎて死に至らない事だけを祈り左手を差し出した。
「・・・・・」
史の左手が小刻みに震えている。
寿々はそれを安心させようとやさしく包み込むように手を重ね、千切れた左薬指を元の場所に丁寧に重ね合わせた。
すると寿々の重ねた右手がまるで七色の細い帯のようになって光輝き、史の指と大きな手を包帯のように円環を描き結びつけた。
「・・・・」
寿々は自分の意識が途切れぬよう、とにかく必死にこの世界へとしがみつくイメージで頭の中を一杯にさせた。
『俺にはまだやるべきことが沢山ある。だから今ここで全てを終わらせるわけにはいかない!』
そのイメージは寿々にとって、かつて出来なかった自分自身に対しての何よりも大切な約束のようなものだった。
10秒ほど祈りを捧げ終えると寿々の右手はふっと光を失い、帯状になった右手も元の状態へと姿を戻した。
ふと眩暈がしたのか寿々は体勢を崩し、と同時にガードしていた羽もそのまま散って消えてしまった。
史は優しく寿々を支え、自分の後ろへと座らせると、そのまま復活した左手と右手を勢いよく打ち合わせた。
パシィン!!という全ての邪気を祓う浄化の波動が部屋全体に響き渡る。
同時に邪気に塗れた全てが高速の振動のように震えたかと思うと霧散して飛び散って消えていった。
「きゃ!」
今井沙耶の母親はその浴びた事もない浄化の波動に震えあがった。
そしてその波動に触れた迦音の人形も霧のように散っていってしまった。
「掛けまくも畏き伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に、御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等、諸の禍事・罪穢有むをば、祓へ給ひ清め給へと白す事を聞食せと、恐み恐み白す・・!!」
史は祓詞を唱え終わると、目の前の炎に向けて右手を押しやるように床に叩きつけた。
すると即座に、ドドド!!という地鳴りのような振動と共に床から浄化の波が湧き上がった。
「ぎゃぁあ!!」
今井沙耶の母親はその浄化の波に洗われるように邪気全てを祓い落され、暫くは動く事もできずその場に蹲ったままになった。
すると目の前に広がっていた炎はみるみる内に小さくなり、最後は落ちた線香が床でくすぶる程まで威力を無くした。
そこへいつの間にか階下へと行っていた迦音が桶に汲んだ水を持ち込むと、その床に落ちて今まさに再び燃え上がろうとしている火種に水を掛け、何とか消火する事ができたのだった。
「・・さっきの炎は呪力による炎だったって事なのか?」
寿々はそのくすぶった床に目を落とした。
「そうみたいですね。でも実際の炎じゃなくて本当に良かったです」
史もようやく呪力と浄化の力を取り戻す事ができ、安堵と疲労の顔を見せた。
「それより寿々さんの体調は大丈夫ですか?このあとまた眠ったきりになったりしませんよね?」
史にとってはそちらの方が心配だ。
「ああ、それは大丈夫だと思う。今は前みたいにダメージもないしな」
「なら良かったです・・・」
史は今すぐにでも寿々を抱きしめてやりたかったが、状況的にはそうもいかなかった。
「・・・んで・・・何でなの・・・ふひと・・くん」
「!!」
寿々と史、そして迦音も一斉に床に蹲る今井沙耶の母親へと目を向けた。
寿々には母親の身体の中に入り込み、涙を流しながらこちらを睨みつける今井沙耶の姿がしっかりと視えた。
史にはその姿は視えず、代りに母親の身体が深緑色に発光しているように視えていた。
沙耶は気の抜けた母親の身体を介する事により、ようやく史へと話し掛けていたのだ。
「許せない・・・絶対に・・・何で死んだのに・・まだこんなにも苦しいの?・・死んだら史くんのそばにずっといられると思っていたのに、何で一緒にいさせてくれないの?いやだ・・・もう・・疲れた・・なにもかも。お母さん・・・楽にさせて・・お願いだから誰か・・助けて」
その言葉を聞いて寿々も史もすぐに返事を返す事は出来なかった。
史は支えていた寿々からそっと手を離すと蹲る母親の前へと歩み寄り、ゆっくりと膝をついた。
「今井先輩・・・俺も絶対に貴方のやった事を許す事はできません。でも俺はこのまま先輩を恨み続けながら生きていたくはない。だからお願いがあります。一言だけ、言うべき言葉を言ってください。それは俺にも先輩にも先輩のお母さんにとってもとても大切な言葉です」
史は真剣な目で深緑の光を凝視した。
寿々にはその視線がきちんと今井沙耶と合っているのを見て、人は目に見える形ではなく魂そのもので目を合わせる事が出来るだなとそう思った。
今井沙耶はその史の真剣な視線に負け、両手で顔を覆った。
「・・・めん・・・さい・・・・ごめんなさい・・ごめんなさい!!・・・・」
史は軽く両手をパシンと合わせると右手をスッと持ち上げ銀色の光をその手に宿した。
そしてその清らかな銀色の光で今井沙耶の深緑の光を包み込むと、今井の霊はそのまま粒子へと姿を変え、部屋の中を渦巻きながらふわりと舞い上がり、そのまま天井を抜け跡形もなく消えていってしまった。




