第5話 魔術と奇術
寿々はあっけにとられた表情の朱李を横目に、ゆっくりと目の前の茂みへと近づいた。
目の前には昨日の夜に見た姿と同じ、あの作業着を着たボサボサの白髪頭で左目が濁っている男が立っている。
しかし寿々はその姿から、まるで初めて対面したかのような緊張を感じた。
『やっぱり様子が変だ・・・。昨日の夢の中の男とは全く別人に見える・・』
寿々も恐怖を感じてはいたが、でもこのチャンスを逃すわけにはいかなかった。
「・・あの。俺の言葉は分かりますか?」
寿々は、じっと見つめてくる男の右目にしっかりと視線を合わせた。
寿々に邪魔をするなと言われた朱李は、寿々の行動があまりにも滑稽に見えたのだろう。
何もない茂みへ独り言を話すその様子を見て、うっすらと皮肉めいた笑いが出た。
「ええ・・三枝さんってそういう人なのか?まさかこんな事までして僕を騙そうと?」
朱李は寿々が視えている片目の男を全く視ることが出来ないし、気配を感じる事も出来ないので本気で寿々が突然奇行を取り出したようにしか見えなかったのだ。
しかし隣で腕を組んでその様子を見ていた史は寿々の姿を真剣に見守っており、視線はずっと寿々に向けたまま、朱李の発言に冷ややかな返答をした。
「視えないのは仕方ないけれど、もし寿々さんの行動を信じられなくて少しでも不快に思うなら今すぐ下がって帰っていいですよ」
「・・・まさか秦さんにも視えているのか?」
「俺は寿々さんのようにはっきりと霊の姿を視る事も、ましてや話す事もできない。ただあの茂みの中に何某かの光が佇んでいてそれが所謂霊魂なのだろう、というところまでしか分からない」
「・・・・・」
朱李はこんな体験が始めてだったのもあり、どうしようものか本気で悩んだ。
どう考えたって寿々も隣で見守る史も、頭がいかれているようにしか見えないからだ。
しかし、本当に今ここで馬鹿馬鹿しいと言って逃げ去るのも違うような気がした。
朱李は少しだけ悩んだが、
「僕も仕事で来ているんでね・・・。信じようとは思わないが状況を見て分析する義務がある」
そう言って覚悟を決めたようだった。
寿々は少しだけ様子を伺っていたが、片目の男から反応が返ってこなかったのでもう一度聞いてみた。
「俺の言葉は分かりますか?」
すると片目の男はジッと寿々の目を見つめながら、
「・・・ぁ・・・ぅ・・・・・」
と小さく擦れる声を漏らすと両手を使って寿々へ訴え始めた。
『え?・・手話!?』
そう、片目の男は目が不自由なだけでなく、言葉までも発する事ができず一生懸命手話を使って何かを伝えだしたのだ。
「ちょ、ちょっと待って!」
寿々は慌てて男の会話を止めると、後ろを振り返った。
「・・どうしましたか?」
その様子を見て史が声をかける。
「どうしよう・・手話なんだけど。俺ちょっと分からなくて」
「手話・・・ですか?」
史はそう言うと寿々の隣に近づいた。
そして寿々の肩に左手を乗せ、
「俺、高校三年間の課外ボランティアで少しだけ勉強したことがありますが、全て正確に理解出来るわけじゃありません。あと今なら俺、寿々さんが集中して視た視界を間接的に透視できると思うんです。これはお互いにかなりの集中力が必要になると思いますが・・・やってみてもいいですか?」
寿々は史にそう言われて当然首を縦に振った。
「わかった。とりあえずやってみよう」
そう言うと寿々はもう一度片目の男に読唇で分かってもらえるように、はっきりとした口調とジェスチャーで話かけた。
「ごめんなさい。俺は手話が分からないから、もう一回今言った事を教えてもらえませんか?」
すると男は再び両手を持ち上げ、ゆっくりと先ほどと同じ動きを繰り返した。
史は目を瞑り、寿々の右肩に触れた手に集中して透視をする。
すると僅かにだが視界の先にぼんやりとした男の手が視えてきた。
そしてその動きを頭の中で追いながら手話を読み取った。
「・・・俺は・・ここで・・命を絶った・・・・。気づくと・・見知らぬ奴に・・意識を乗っ取られ・・見知らぬ・・森へ連れて行かれる・・・。俺は・・楽になりたかった・・なのに・・あいつは・・俺を楽にさせてくれない・・次から次へと・・知らない子供を脅し・・・続けている・・」
手話を通訳している史の声を聞きながら寿々は、男の手の動きだけに視線を集中させた。
「じゃあ貴方は知らない男に操られているだけ、そういう事ですか?」
「・・・そうだ。・・・俺は魂になってもずっと苦しめらている」
「貴方を苦しめているその人物に心当たりは?」
「・・全く・・ない。・・姿形も分からない。俺の中にあいつがいる時・・わけの分からない数字と憎しみ、それと使命感だけが・・俺の中にある。・・俺は・・楽になりたい・・」
寿々はその言葉を聞いて史へ向き直った。
史も透視を止め、目を開けると寿々を見つめる。
「どうしますか?浄化するのはいいですが、そうすると片目の男を利用している黒幕を探すのは難しくなりそうですよ」
寿々はその言葉を聞いて少しだけ俯いた。
「・・・確かに。ただこの人をこのままにしておくことは出来ない。楽になりたいと願うならば、魂を浄化させて向こうへ行けるようにしてやらないと。それに、もしかしたらこの人の魂が利用できなくなることで状況が変わるかもしれない。朱李さんと俺のカウントダウンは変わらなかったとしても、それでも『This Man』の夢を止めることによって、この先の被害を一時的に止める事はできると思うんだ」
「そうですね。その黒幕へのヒントがこれ以上無いならば、片目の男の希望通りにする事で事態が変化する可能性に掛けた方がいいのかもしれません」
史はそう答えると寿々と頷きあった。
そして史は寿々に肩に置いた手を離すと、そのまま両手をパシィンと打ち合わせた。
そうやって両手を合わせる事で、史は左手に宿る呪力を右手で発せられる浄化の力へと変換させる事が出来る。
変換させられた浄化の力を握られた拳へと集中させその内側に溜め込んだ。
朱李は二人の行動を、本当に何をしているのか?と完全に理解不能になりながらも必死にそれを目で追った。
手を打って右手を構えた史のその姿は確かに何某かの術を施している、そんな様子だけは理解できたが、不思議とその拳から発せられる圧の様な奇妙な気迫だけは何となく感じられるような気がした。
何故ならば公園内には風一つ吹いてもいないのに、史が拳を握った瞬間に辺りの樹々が突風にあおられた様な揺れ方を見せたからだ。
『・・・何だ今のは・・何で風も無いのに急に樹々が揺れた?』
そんな疑問を感じながら再び史へと目を戻す。すると史は握られた右手をそのまま押し出すように茂みの方向へと押し放った。
その瞬間、目の前の茂みがザザザ!とその波動を受けてざわめき、片目の男が史の発した銀色の波動と共に片目の男の魂が空へと舞ってゆくかと思われた・・・・その時。
急に目の前の茂みに青白い閃光が走った。
バチバチッ!!
「!!」
「危ない!!」
史は急いで寿々を庇うと閃光から飛び退くように離れた。
「!?・・・なんだ?」
数メートル離れて計器を見ていた朱李も急な発光に驚き、思わず身を屈めた。
「・・・今のは・・!?」
閃光から逃れた寿々は史に抱えられたまま目を開けると、そこにはまるで落雷に遭ったような悲痛な表情のまま青白い光を帯び、硬直した状態の片目の男が立っていた。
「そんな・・浄化できなかったのか?」
寿々がそう言うと、寿々の細い腰を抱えた史の腕がグッと力が籠るのが分かった。
「?」
見上げるとそこには信じられないと言った顔をした史が立っている。
「何ですか今の閃光・・何で俺にも片目の男が見えるんですか??」
「え?」
寿々も史も今まで無かったこの状況に驚きと困惑を隠せない。
そればかりではない。
「!そ、そんな・・・片目の男??本当に存在するのか?」
少し後ろにいた朱李にまでその茂みに立つ男の姿がはっきりと見えていたのだった。
「まさか朱李さんにも見えているの?」
寿々の問いに朱李は黙って頷いた。
こんな事は始めてだった。
すでに肉体から離れ亡くなった魂が浄化に失敗したばかりか、まさか現実に実体化までするなんて。
「一体何が起こっているんだ・・・」
寿々がそう呟くのと同時に、片目の男はその背後に空いた500円硬貨くらいの小さな黒い穴の中に皺くちゃになりながらズズズズと吸い込まれていき、最後はその穴も萎んで無くなってしまった。
「・・・・・・・・」
朱李は何もかもが信じられないといった表情であったが、気づくと手に持った計器が異常な数値を示しているのを見た直後、エラーコードを出したかと思うとそのまま表示すら消え動かなくなってしまった。
午後7時半
寿々と史は、精神的に疲弊したのかすっかり黙り込んでしまった朱李を新宿のオカルトラボへと送り届け、所長である朱李の姉藍李に一取りの事情説明をした後、ようやく編集部へと戻ってくることが出来た。
編集部内ではまだ副編の吉原と編集長の最上、それから篠田が仕事を続けている最中だ。
昼過ぎに編集部に戻らせた酒井には寿々の方から事前に連絡を入れたが、音を専門的に研究している先輩と連絡は取れたが詳しい話は明日になるとのことだったので、今日のところは先に帰宅してもらい、明日改めて連絡を貰う事にした。
寿々は勿論だが史からの提案もあり、この事態をきちんと編集長の最上に説明をする事に決めた二人は、荷物を机へと置くとそのまま最上の机に向かった。
「編集長、今ちょっといいですか?」
寿々と史の二人で揃ってやってくるなんて久しぶりの事だったが、最上は二人の真剣な表情を見ると何かを察したのかすぐに立ち上がった。
「・・・うん、時間は大丈夫だから。会議室の方でいいかい?」
そう言うと寿々と史は最上に続いて会議室の中へと入っていった。
「・・・・それで、何があったんだい?」
最上は神妙な面持ちで二人に質問した。
寿々と史は顔を合わせると軽く頷きあい、寿々が今までの経緯を説明した。
「・・・・本当に最初はただの投稿されてきた心霊写真と都市伝説的な噂話から始まった今回の一件だったはずでした。しかし今日になって急にそんな事が起きて・・・。俺は正直、3ヵ月前のあの議事堂地下で見た知念さん最後を思い出さずにはいられませんでした。・・もしこの件が本当にあの常天統合府との関わりがあると言うのならば、俺は早急にこの件から降りたいと思っています」
寿々の話を聞いて最上もかつてない程に厳しい表情になる。
「・・・・・・三枝君の話す事が本当ならば、僕もそうするのが懸命だと思う。万が一またあの時のような事になって、鏑木・・・いや、今は佐藤か。佐藤が再び君たちの前に現れたりすれば次は本当に君たちは勿論、僕もアガルタ編集部の皆にも、それこそオカルトラボの人達にも報復があるかもしれない。絶対にこれ以上の深追いだけは避けるべきだ」
寿々も最上の言葉にしっかりと頷いた。
史もその意見に同意してはいるが問題はまだある。
「俺も今回のこの一件から手を引くと事は賛成です。ですが問題は夢の方です。確証は何もありませんが、片目の男が夢に現れると転落死をするという・・。片目の男と転落死の引き金が超高周波にあるのでは、という所までは何となく見えてきたものの、現状本当に何も起こらないのか。それともやはり起こってしまうのかまではまだ分からないんです。オカルトラボの東海林朱李さんの予告まではあと2日。寿々さんはあと4日。これを回避出来てからでないとしっかりと手を引く事はできません」
史の話を聞いて最上も寿々も黙り込んでしまった。
『・・史の言う事もわかる。本当のリミットが朱李さんと同じ2日後だって事を正直に話せていないのもあるけど、黒幕がもし本当に常天だと言うのならば、俺も恐ろしくて仕方がない。・・・ただ本当にこれ以上あいつ等とは関わりを持ちたくない。けれど、どうすれば夢の呪いを回避しつつこの件から遠ざかれるのか・・・』
寿々が真剣に悩んでいると、その様子を見た最上がとある事を提案してきた。
「どこか閉鎖的な場所で結界を張った上で音も遮断できれば・・・何とか回避もありえるんじゃないだろうか?」
「閉鎖的な場所で結界と音を遮断・・ですか。うーん・・・どうでしょうかそんな場所がパッとは思い浮かばないですが」
寿々がそう言うと史は少しだけ困ったような顔で最上を見つめた。
「ん?どうしたんだい史君?何かいい案でも思い浮かんだかい?」
「いやぁ・・・あまりいい案ではないのですが・・・・。ここならばもしかしたら・・」
「ここ?ここってこの会議室の事かい?」
「はい。ここは地下なので転落するような場所に移動するのも簡単ではないです。ただ密閉はされていないので、音を遮断する事はできませんが一応は閉鎖空間にはなります。音の問題は別の方法を考えるとして、何とかここに結界を張れたとしたらもしかしたら回避できるかも」
「・・・・うーん」
最上も難しい顔をしながら顎に手を当てるようにして考え込む。
「個人的にはいいよ、と言いたいところではあるけれど・・・」
『それはそうだ。自分が所有する場所ならいざ知らず、ここはあくまでも会社だ。何も起きない事が第一だけど万が一何かが起こった場合、その責任を全て編集長が引き受ける事になる。流石に俺達の企画でそこまで編集長を巻き込むのは・・・』
寿々もそんな事は無理に決まっている、とそう思っていたその時、
「わかった。じゃあ僕も建前上日曜の夜はここで仕事をする事にするよ。それで何かが起きた場合は全部僕が引き受ける。勿論何も起きないよう可能な限り方策を講じよう」
と二人に向けて笑顔で返した。
「え?」
「・・・・・いいんですか?」
寿々は勿論、提案した史ですらその返答に驚いた。
最上は少しだけはにかんだように笑い、
「何もない事が大前提だよ?・・でも僕もアガルタの一員だからね。大事な編集部員が困っているのに何も協力しないのは違うだろう?」
と照れくさそうに答えた。
「「ありがとうございます!」」
二人は声を併せて最上に頭を下げる。
そしてそのまま向かい合うと、
「じゃあ早速、俺は東海林所長に連絡してみるよ。もうラボにはいないかもしれないけれど電話してみる!」
「了解です。俺は父さんに連絡してみます。直接来てもらうのは無理だとは思いますが、簡易的なものでもいいので呪力で結界が張れるか聞いてみます」
そう言って互いに頷き合った。
かくしてアガルタとオカルトラボ総出で『令和のThis Man』に立ち向かうべく、化学の力と呪力の力を駆使した防衛戦へと二人は取り掛かったのだった。
自宅に戻ってからの東海林朱李はとにかく頭の中を整理すべく、ひたすら収集していきた周波数データをまとめ分析する事に集中しようと努めた。
しかし。
どうしたって今日見た片目の男のあの姿。それから奇怪で理解不能な寿々と史の行動や言動が頭の中をぐるぐると駆け巡り、その思考を遮る。
まとめている公園内の分析データだって、どう見ても何の意味もなさないただ数字を並べただけのレポートにすぎなかった。
「あぁ~もう!気が散る」
朱李はそう呟くと開いていたノートPCを、抑えきれない怒りを何とか堪えながら閉じた。
すると部屋のドアがノックされた。
「朱李。ちょっといいか?」
姉の藍李がそう言って扉を開け声をかけた。
「何?」
明かに機嫌の悪い朱李を12歳年上の藍李は困ったような、それでいて優しい笑顔で見つめると、朱李に椅子に座るように促した。
「朱李。朱李が今日色々と信じられないような体験をしてきた事のだけはわかる。私ももし朱李と同じ立場だったら絶対に何が何でも徹底的に科学的に分析して解明してやらないと気が済まないだろう」
「・・・その通りだ。あんな・・あんな奇術みたいな事。僕は絶対に信じる事ができない!」
「うん。・・・朱李、私達はそれでいい」
「?」
朱李は姉の意見に少しだけ驚いた。
何故ならば姉の藍李は、当然科学者として超常現象を科学的に解明する為にオカルトラボを作ったのだが。それでも半分はそういった不可思議な現象への興味や探求心は勿論、根っこではオカルトが好きだからというスタンスもあったように見えたからだ。
だからリアリストの朱李からすれば、オカルト好きな藍李が自分寄りの発言をする事に若干の違和感を感じた。
「私達が信じるのはあくまでも科学的に証明できるデータだけ。それでいい。・・ただ科学者はこの世の中にはまだまだデータとしてだけでなく、現象を測る物差しすら用意されておらず、太刀打ちできない事象が山ほどある事も理解しておかないといけない。恐らく朱李が今日遭遇した現象がそれだ」
「・・・・・。死んでいるはずの男が、夢の中ではなく、実際の目の前に現れたんだ。それだけじゃない。最後は妙な穴の中に吸い込まれるようにして消えて行った。そんな馬鹿な事があっていいわけない!」
朱李はそう言ってイラつきながら爪をカチカチと鳴らした。そうやって何度も何度も頭の中ではあの現象のトリックを証明してやろうと、可能性を必死になって考え続けていた。
だが、どう考えたって公園の茂みは勿論公園にも周辺のビル群からも、どうすればあんなリアルで不気味な映像を投影させられるのか。やはり何度考えてもそれを証明させられそうにはなかった。
それは朱李にとってはある種敗北を意味する。
こんなに悔しい事は無かった。
そのあからさまに悔しそうな顔を藍李は姉として、そして同じ科学者として少しだけ誇らしくも感じた。
「・・・さっき三枝さんから連絡があったよ」
「三枝さんから・・?」
寿々の名前を聞いて朱李は複雑そうな顔になる。
「明後日日曜の夜。アガルタ編集部内の会議室で朝まで検証をするそうだ」
「検証?それってまさか僕が転落死しないかって検証!?」
「まあそうなるね」
「馬鹿馬鹿しい!!皆まだそんな事を信じているのか?僕がそんなアホな事をするわけがないだろう!ましてやただの噂にしかすぎないって言うのに!」
朱李は怒って席を立ちあがった。
しかし藍李は冷静に座ったままその立ち上がった朱李を見つめ、
「朱李。私も何も起きないと信じたいし、信じている。でもやっぱり私も人間だから、それでももし朱李に何か起きたらどうしようと本気で不安も感じている」
「・・・そんな。あるわけない事に不安なんか」
「そうかな。確かに・・・12年前の私ならそう思っていたかもしれない。でも・・現実はそうはならなかった」
「・・・・・・・・」
「あの頃、父さんも母さんはいつも何かに怯えていた。でもそれは私と朱李を守らないと、という責務があったから怯えていたんだ。私も同じだ。今ならば父さんと母さんの気持ちが痛い程よく分かる。あの日、大学受験の為に名古屋から上京していた私は受験後すぐに警察から連絡を受けて父さんと母さんが殺されて亡くなった事、そしてまだ5歳のお前も刺されて意識がない事を聞いて本気で立ち上がれなかった。・・・例え馬鹿馬鹿しいと分かっていたとしても。本当にそれが起こってからでは何もかも遅いんだよ朱李」
朱李は完全に治っている筈の左の腹が何故か痛むような気がして、肘を抱えたまま手でその傷口を押さえた。
夢の中で見た片目の男は、まるでそれを知っていたかのようにその傷口に包丁を突き立てたのだ。
「・・朱李。私の事を馬鹿にしてくれて構わない。でも私をこの不安から助けるためだと思って日曜の夜、アガルタ編集部に私と一緒に来て欲しいんだ」
朱李は藍李の顔をまともに見る事が出来なかった。
藍李が悲しそうな目で自分を見つめているのが見なくても分かったからだ。
藍李はいつでもそうだ。自由奔放に生きているように見せていつでも妹の朱李の事が最優先だった。
一家殺傷事件の後朱李は1年間近く目を覚まさなかった。
藍李は大学に通いながらまだ幼い朱李を毎日のように見舞い、声を掛け何とか意識を取り戻すよう精一杯の努力をしてきた。その後朱李が無事目を覚まして回復してからも、都内で必死に勉強をしながらたった一人で朱李を育ててきたのである。
そんな姉の頼みを朱李が断れるわけがなかった。
「・・・・わかった。ただし。僕はあくまでもオカルトラボの職員として、この異常な現象を解明させるために参加する」
朱李がそう言うと、藍李はようやく安心したのか大きなため息を吐き出し、
「うん、朱李はそれでいい」
と頷いたのだった。




