【2】ヒトと草花印
「……失敗しましたね。機能テストをしてから着用すべきでした」
手袋の下から現れた手の甲に、彼女は己の迂闊さを呪った。
どうやら、今日から使い始めた非婚者用の手袋は不良品であったようだ。
清潔さを保つ風魔法は上手く働いているが、肝心要な抗印魔法が機能していない。
その証拠が、右手の甲に咲き誇っていた。
薄紅色の五花弁を黒色の蔓が円を描いて取り巻き、あたかも花を守るかのように藍鉄色の葉を茂らせている。
慈愛の女神か何だか知らないけれど、いらないおせっかいだ。強制見合い制度など勘弁してほしい。私は『帰る』のだから!
顔を引き攣らせた彼女は、その日のうちに【消紋屋】を訪ねた。勿論、その帰りにしっかりと魔具屋にお礼参りをしたのだった。
***
「あれ……え、ええ!? いつの間に!? どうしてすぐに気付かなかった、僕っ。寒いからって、毛皮なんて『出して』おくんじゃなかった!」
彼は慌てて人態化した。消えた黒毛の下、鮮やかに咲き誇る【草花印】。
信じられないものを見るかのように藍鉄色の瞳を丸めて、彼は恐る恐るとその花に触れた。
己の伴侶を象徴する、儚げな花。見慣れぬ五片花。まさか、旅先の異国で己が番と出逢えるとは。
「どんな子なのかなぁ。明日、朝一で【花合わせの館】に行くぞ!」
残したままだった黒い尾が、対印の主を思って限界まで膨らみ、宿屋の床を掃除し始める。
ほんとのことをいうと、もう、諦めかけていた。強すぎる魔力を身に宿した僕が、子を生す伴侶を見つけるなど、犬族の抜け毛に混じった猫族の抜け毛を見つけるようなものだ。不可能。時間の無駄。そう、思っていたのに。
ああ、慈愛の女神よ、感謝します! ここのところ仕事が忙しくて参拝をさぼり気味でごめんなさい!
ひゃっほいと喜び浮かれた彼は喜びの遠吠えを夜空に響かせた。
一刻の後、その花が突然消えた悲しみに慟哭の雄叫びを響かせることも知らずに。
***
この世界は、多種多様な種族で溢れている。
複雑な生態系の中、命が喰らい喰らわれ連なる在り様は、ユッカの『元の』世界と同じであった。
しかし、『この』世界は、『ヒト』の定義の広さがまるで違う。人族、鳥族、亜人にエルフ、精霊族、魔族。多種多様な『知能』を持つヒトが、時に争い時に手を組んで共存する世界こそが、今、ユッカが生きる場所である。
そう、彼らは共に生きなければならない。そうでなければ生き残れない。異種族が互いの長所を生かして国と民を守らなければ、竜の一吹きであっけなく彼らの命は消えてしまうのだ。竜だけではない。魔獣の突発的な凶暴化、魔植物の侵攻、水精霊の暴走。想定などしきれない天災厄災がヒトを襲い、否が応でも異種族間の団結力を強めてきた。
ヴォルガノもまた、異種族が協力し合うなかで築かれた帝国の一つであった。しかし、種族の違いは文化の違いでもある。同じ一つの帝国に属してはいても、臣民達は種族ごとに領地を棲み分けて暮らしていた。
多種多様な種族が住まう帝都ヘルムは、その意味では特殊な場所であった。特に平民の住まう南地区は、数多の種族が入り乱れて、もはや同族を見つけることの方が難しい有様であった。
無数の種族が入り乱れた結果、何が起きたか。いや、この場合は、生まれた、というべきか。
―――混血児の処遇が問題となった。
伴侶ごとに異なる証を描き、番を強く結びつける草花印は、社会的地位も種族も関係なく、交配が可能でさえあれば顕現する。ただ適齢の男女が身体的に触れただけでたやすく花は咲き乱れた。人々の心を置き去りにして。結果として、【消紋屋】と呼ばれる非合法な草花印消しを生業とするものが生まれたのだった。
時として、徒花となるはずの印が実を結んでしまうことがあった。例え異種族同士であっても、言葉を交わして触れあううちに、そこに感情が芽生え命が生まれることもあったのだ。それを、愛と呼ぶか憎しみと呼ぶか恋と呼ぶか哀しみと呼ぶかは、人それぞれであった。
ただ、異種族間で結ばれた実―――混血児だけが、そこに残った。大多数の彼らは、両親どちらの種族にも受け入れられなかった。他種族が共存するからこそ、自己の種族に対する意識が強まり純血主義となった人々にとって、混血児は『過ち』でしかなかったのだ。
帝都ヘルムの南地区。そこは平民と、貧民、そして孤児達が生きる場所だ。互いを支え合い、大人顔負けの逞しさで生き抜く子供達の大半は、この混血児であった。
南地区の孤児達には、明らかな純血者もいた。同種族を大事にするはずの人々が、彼らを何故捨て置くのか。この原因もまた、草花印であった。伴侶が揃いの草花印によって示される分、人々の貞操意識は高い。同印の絆を尊ぶ文化の中で、草花印が異なる者の間に生まれた子供は、社会的に『許されない』存在となってしまったのだ。彼らに対する嫌悪感情は、人によっては混血児をしのぎさえした。
***
人にヒトと認められない命が集まったスラム街。ユッカが、経営する孤児院【リーンの館】の初代卒業生達と出会った場所である。彼らは今では、料理人・官吏・旅人・冒険者・傭兵など、それぞれの道に進み、四大陸中に四散してしまっている。時々来る生存報告を兼ねた近況報告の手紙は、ユッカの楽しみの一つであった。
十年前に初代卒業生と共に選んだ来客用ソファーが、ユッカの前にそびえ立っていた。院長室に置かれた、向かい合った二脚のうちの一つを見上げる。ユッカはふんっ、と腕まくりをした。そして、精一杯腕を伸ばして、己の身の丈よりも高いソファーによじ登り始めた。
少し爪を立ててしまった。しかし、丈夫さに定評があるケルベロス皮だ。少し経てば跡は消えるだろう。ソファーに腰掛けたユッカは、浅く付いた爪跡を優しく撫でた。持ちの良さに関しては商人のお墨付きをもらっている品だ。なにしろ、リーンの館にいる子供達の半分以上が、獣人の混血児である。爪が出たままの子や、仕舞えても興奮してうっかり爪とぎをしてしまう子もいる。どの子が触れても傷がつきにくいという点が気に入って買った品だった。
ソファーだけではない。館の備品は全て、丈夫なものか壊されても構わない安物を選んでいた。ユッカとしては、家具などいくら壊れても構わない。傭兵時代に稼いだ資金は、彼女が一生かかっても使い切れないほどの額である。幾らでも新品を子供達に与えることができた。だが、それでは教育に悪い。スラム出身の孤児たちは、ものの大切さなど人に言われなくても知っている。それでも、ユッカは彼らの真ん丸な色とりどりの瞳と目を合わせて言い聞かせてきた。
「ものは大切にしましょうね。ソウカ、箒の柄を齧っても美味しくないでしょう。前歯を消して、ヒトの歯にする練習をしましょうか。カイル、ティボー、お皿は料理を盛るためのものよ。フリスビーではないの。竜の鱗製で面白いほど飛ぶのはよく分かるわ。でも、デザート用の氷竜の鱗は冷たいでしょう? ああ、ほら、肉球がとっても冷たいじゃないの」
孤児院を創設する時にユッカは考えた。いつか旅立つ子供達に自分が与えられるものは何であろうか、と。そして決めたのだ。自分の小さな手では大したものは渡せない。だから、せめて全員に思い出と教育を与えよう。広い世界のどこにいても彼らを思う『家族』の思い出と、胸を張って世界を生きていくことができるだけの教育を、子供達に贈ろう、と。
ものは大切に長く使いましょう。普段から子供達に言い聞かせていることだ。
ユッカは遠い眼をした。
(長く、使わなくてはだめよね。一度買ったからには、修理不可能なほど壊れるまで使いつぶさないと。例え、使う度によじ登るか飛び上がるしかない、不便極まりない巨大さでも)
獣人の客にも対応できるサイズにしたソファーであった。しかし、大は小を兼ねない、というか、小に優しくない。ユッカは、自分もあのぐらいの背丈が欲しかったと、客人を見つめた。
向かいのソファーに横たわった狼族の騎士―――ケビンは、ソファーから長い黒毛に覆われた尾が垂れ下がっていた。消すこともできるそうだ。しかし、あった方が可愛いのにもったいないと、ある時に呟いたところ、出したままで来て下さるようになった。本当に良い人だ。よく、子供達に飛びかかられている。本当に心優しい方でよかった。
ユッカには大きすぎるソファーも、ケビンにはちょうど良いようであった。何ともうらやましいことである。自分など、養親のエルフを始めてとして、ほとんどの種族に幼子と間違われるミニマム族だ。
例外的に、嗅覚の鋭い獣人に成人扱いしていただいたこともあった。しかし、「お! 良い匂い」と人様の首筋を嗅ぎながら吼えるのはどうかと思う。その養母の知人は、親友であるはずの養母から容赦のない火魔法を喰らい、『躾』を受けていた。
少しトラウマになった、色々と。以来、養母の前では今まで以上にお行儀のよい良い子でいるようになった。また、風魔法による匂い消しの守り札を常に身につけるようになった。
結果、獣人にすら初対面では幼児に間違えられるようになってしまった。今では諦めて、相手の油断を誘うことができるため、そう悪くもないと自分に言い聞かせている。傭兵時代に仲間の信頼が必要となった時には、実力行使で黙らせたものだった。
少し昔を懐かしんだユッカは、向かいのソファーに懸けられたキルトに、目を細めた。毛のあるお客様が来た後はソファーの掃除が大変ね。そう零した彼女のために子供達が縫ってくれた贈り物だ。このキルトを見る度に、普段以上にユッカの頬は緩む。小さな毛むくじゃらの手が、不器用に針を握る様を想像してのことだった。
本当に、うちの子達の可愛らしいことといったら。笑みを深めたユッカの前で、ケビンが身じろぎをした。目を覚ますかとユッカは姿勢をただす。しかし、寝返りを打っただけだった。ケビンの胸元は規則正しく上下して彼の熟睡具合を示していた。
疲れていて当然だろう。騎士団は激務だ。その合間に、彼は頻繁にリーンの館を尋ねてユッカが腕をふるった防御魔法に挑んでいる。普通に正門のベルを鳴らして下さいと何度もお願した。しかし、ケビンは笑って吠えた。
「約束でしょう。僕が貴女の防御魔法を完全に破ることができたら、この花の由来を教えて下さると確かにおっしゃりましたよね」
詰襟の騎士服は、呼吸を楽にするためにくつろげられていた。中の白シャツも数個のボタンが外されて、黒毛に埋もれた銀鎖が覗いている。ユッカは、その先にある小さなロケット、その中にある細密画を一度だけ見たことがあった。そこに描かれているのは、一つの草花印だ。ケビンは、その印の持ち主を探しているらしい。印の中央に配された薄紅の五片花に、ユッカは見覚えがあった。リーンの館の紋章として利用している花は、異世界の『日本』では『サクラ』と呼ばれる花であった。
***
その昔、ユッカがまだ現代日本から『飛んで』間もない頃のことだ。
養母であるエルフが、薬草の変異種を説明中に、ふと呟いたことがあった。
「【草花印】は、生殖可能かつ優秀な遺伝子を残すことができる男女に発生する現象よ。種の保存のために遂げた進化の結果とも言えるわね。異種族間でどこまで交配可能かを知るのに、これほど分かりやすい目印はないもの」
まだ少女であったユッカは、生真面目に師であり保護者でもあるエルフに忠告した。
「草花印は、慈愛の女神が人にその伴侶を指し示すための奇跡、というのが一般的な説なのでしょう? 敬虔なラヴェンナ教徒に聞かれたら異端審問にかけられますよ。この程度で怒るような神に崇め奉る価値があるのかは疑問ですけれど」
200歳を少し超えたばかりの若いエルフは、ユッカを微笑ましげに見つめた。
彼女は幼子に語るような口調でユッカを諭した。
(事実、彼女はユッカを10ぐらいの子供だと考えている様であった。彼女は、己の養子が異世界人であると知らず、空間移転陣の誤作動で未開の地から来た少女だと思っていた。ユッカも、あえてそれを訂正しようとはしなかった)
「あら、神にだって心はあるのよ。心がなければ、それはただの『もの』でしょう? 神と言うのはね、ユッカ」
木々が覆い茂る森の中、薬草を摘む手を止めて彼女は空を見上げた。
「私達より少し永遠に近いだけの、私達と同じ心を抱えて生きている方々なのよ」
***
神に心があるのならば。
後にユッカは思った。
神に心があるのならば、どうして、この子達の居場所を奪うような草花印を作ったりしたのか。
不信心者の彼女は、神を信じていないくせに、こういう時に限って神を詰った。
だって、そうでなければ、誰を責めればよいのか分からなかった。
地に倒れ伏した血塗れの幼子を抱き上げて、彼女は決めた。
例え偽善者と呼ばれても構わない。
神より小さなこの手で、彼らの帰るべき場所を作り上げよう。
―――例え、それが自分の帰るべき場所を諦めることになっても。
だから、ごめんなさい。
ユッカは眼を伏せた。
彼女は、ケビンの探し人に心当たりがあった。
ユッカの左手が右手にそっと重ねられる。
それは、かつて帯刀という文化を持っていた日本人の礼儀作法だ。刀を抜く利き手を抑え、攻撃の意志が無いことを示したという動作は、しかし同時に、右手を隠すようにも見えた。