第十一回 お花畑の川遊びと湖のヌシ(中編)
深い森に囲まれた上流の湖は、鏡のように静まり返っていた。時折、水面を渡る風が小さなさざ波を立てるだけの、実に対照的で静謐な空間である。
そんな厳かな場所に、釣竿を担いだルピナスと、未だにぶつぶつと文句を言っているヴァルデマールの二人が到着した。二人は適当な岩場を見つけると、そこに並んで腰を下ろし、湖面へと一斉に糸を垂らした。
釣りといえば、気配を殺して静かにアタリを待つのが鉄則である。だが、お花畑スタジオの社長と指導役に、そんな常識が通用するはずもなかった。二人は糸を垂らした瞬間から、全くお構いなしに、普通の声量で雑談を再開した。
「ねえヴァルデマール、この湖、すごく綺麗だね。ミモザも連れてきてあげたら、きっと喜んだだろうなぁ。今度三人でピクニックに来ようよ」
「ルピナス様、まずは目の前の浮きに集中してください。というか、そんな大声で喋っていては――」
「え? 何か言ったかい? あ、見て見て、あそこに鳥がいるよ! 可愛いねぇ」
「人の話を聞いてください! これでは釣れるものも釣れませんぞ!」
静寂をぶち破る二人の呑気な大声。魔導カメラが捉えるそのシュールな光景に、全国の視聴者(平民たち)からは、光の速さで一斉に総ツッコミが叩き込まれた。
『おいおいおい、普通に雑談するなwww声がデカいwww』
『魚が逃げるだろw』
『釣りしたことない奴らのムーブ全開で草』
『誰かこいつらに釣りの基本ルールを教えてやってくれよwww』
『「あそこに鳥がいるよ!」じゃねえんだわ王子www』
当然、コメント欄の阿鼻叫喚など届くはずもないルピナスは、不思議そうに小首を傾げてヴァルデマールを見た。
「え? そうなの? ヴァルデマール、釣りって静かにしなきゃいけないのかい? 僕、お城のプールでしか泳いだことがないし、釣りなんてしたことないから知らなくて……」
「……実は、私も若かりし頃に先代公爵殿下のお供で付いていったことはありますが、自ら竿を握るのは初めてでして。静かにしなければならない理由は、魚が警戒して――おや? ルピナス様、私の浮きが――」
ヴァルデマールが言葉を途切れさせた、その瞬間だった。
ピチャ、と湖面に浮かんでいた赤い浮きが不自然に沈み、次の瞬間、ヴァルデマールの持つ竹製の釣竿が、ミシミシと音を立てて信じられないほどの角度で大きくしなった。
「うわあああ!? ひ、引っ張られます! ルピナス様、もの凄い力です! 体ごと湖に持っていかれる――うわっとと!」
「ヒットだ! 大物がヒットしたよヴァルデマール! 頑張って、逃がしちゃダメだ!」
二人は大慌てで叫び声を上げた。水面が激しく波立ち、バシャバシャと凄まじい水飛沫が上がる。透き通った湖の底から、大人の胴体ほどもある信じられないような巨大な影が、暴れ回っているのが見えた。この湖の底に何年も潜んでいたであろう、まさに「湖のヌシ」と呼ぶにふさわしい怪物魚だった。
細い釣竿は悲鳴を上げ、釣り糸はギリギリと引き絞られて今にも千切れそうだ。ヴァルデマールは老体に鞭を打ち、岩場に必死に足を踏ん張るが、ヌシの規格外の怪力の前にはあまりにも荷が重い。ずるずると水際へと引きずられていく。
「くっ、ここまで……老骨に鞭打つことになるとは……! しかし、ホールディングスの備品を失くすわけにはいきませんっ!」
「ヴァルデマール、諦めるな! 僕が支える!」
ルピナスはクワを放り投げた時以上の素早さで動き、後ろからヴァルデマールの体に両腕を回した。薪割りで鍛え上げたガッチリとした体躯を活かし、老執事を背後からぎゅっと抱きしめるようにして、二人がかりで地面を踏ん張る。男二人の筋肉が、限界まで悲鳴を上げた。
「ぐぬぬぬぬ……! ルピナス様、重畳……! ですが、本当にこれ、魚なのですか!? まるで暴走した馬車を引っ張っているようです!」
「大丈夫、僕たちの愛と友情の力があれば、どんなヌシにも負けないよ! せーの、引っ張れ――」
――プツンッ!!!
静かな湖畔に、鋭く強烈な破裂音が響き渡った。
限界を迎えた釣り糸が、無残にも引きちぎれたのだ。ヌシの強烈な推進力を一瞬で失った二人は、踏ん張っていた反動を抑えきれず、そのまま勢いよく後ろのふかふかとした草むらへと倒れ込んだ。
「どわあああっ!?」
「うわっとっと!」
ドサリ、という重苦しい音とともに、草むらに重なり合う二人。
完全に体勢が崩れた結果、ヴァルデマールがルピナスの上に完全にのしかかるような、なんとも言えない絶妙で、そして極めて不格好な構図が出来上がってしまったのだった。
その瞬間、二人の奮闘を見守っていた魔導スクロールの動きが一瞬だけ完全に静止し――直後、特定の層による凄まじい大爆発を起こした。




