第六話 貧民窟
陸王が目指すのは人の住む場所に於いて最も厭われる場所、貧民窟だった。
まだ行商人と出会す前、人混みを避けて歩いているうちに貧民窟の入り口付近に辿り着いてしまったのだ。無論そんな場所に用もなくすぐに踵を返してきたのだが、今は事情が違う。行方不明になってしまった雷韋の消息を知る上では最も頼りになる場所であった。
そこには街中の情報全てが揃っている。盗賊組織でさえも掴めぬ情報があるのだ。
貧民窟は犯罪の温床であり、知らずに入り込もうものならどんな目に遭わされるか知れない。秩序なき故に人々からは厭われてもいる。しかし使い道さえ確かであれば、盗賊組織などより遙かに使い勝手はいいのだ。
それを紫雲に軽く説明すると、彼は頷いてみせた。
都市にもよるが、盗賊組織は大抵の場合、商人の保護を請け負い金と権力者のために働き、尚かつ街の治安を裏側から護るための単なる組織でしかない。社会の裏側全部を手中に治めているわけではないのだ。裏社会の存在でありながら、しかしそれはある意味、表社会の一部であった。
だからこの街で行われていると言う人身売買の情報も噂はあれど、その証拠さえ確かに掴むことが出来ずにいるのだ。
だが組織ではなく個として動き、生きるためならどんなことでもする貧民窟の者達は違った。彼らは自らの飢えと欲を満たすためなら強盗も強姦もする。金をくれるというのならば、殺人さえ厭わない。
それから言えば、盗賊組織とは相反する存在なのだ。
だからこそ人々は彼らを疎んじ、そして、だからこそ陸王は彼らを必要とした。
裏にある情報を全て握っているにも関わらず、決して不用意にそれを口にすることはない。彼らは金を落としにやってくる者達を手を拱いて待っているのだ。
情報という商品を手にして。
陸王は紫雲を共連れに、それを求めて夜の街を歩いた。街の外側、寄生するように外壁が崩れた先にある夜の闇よりも尚濃い闇を纏った場所へ向かう。
大路から裏通りへと道を抜け、家と言ってよいものか分からぬ住処が立ち並ぶ合間の枝道を通って、いつしか彼はそこへと辿り着いていた。
乱雑に、歪なまでに折り重なるようにして立てられた違法建造物の密集する場所に。
そこはまるで、人の吐き出した欲望の残骸をそのまま形にしたような場所だった。全ての澱が溜まり、膿んで淀みを作っているように見える。それなのに尚、貪欲なまでの欲と執着に支配される気配に満ちていた。
怖気のするような魔物の気配にそれはよく似ている。
闇の衣を纏って建ち並んだ建物の、小さな明かり取りの窓から漏れ出る薄明るい光が奇妙に揺らいでいた。その明かりはランプのような安定したものではない。どこからか拾い集めてきた木片や、街の外から持ちこんだ木の枝などを燃やしているのだ。そのせいで虚ろな明かりが闇の中に妙に揺らいで、うっすらときな臭い匂いも辺りに漂っている。
陸王はそんな建物の間を縫うように進んでいった。そして奥へ進めば進むほど、何かの燃えるきな臭さとは違う臭いが辺りに満ち始めた。
不浄な饐えた臭いだ。
それが徐々に濃密になり、鼻につく。
それがこの場所そのものの臭いなのか、それともぼろを纏った人間達が道端に幾人もいるせいなのかは分からない。だが、それでもはっきりしていることはあった。
辺りにいる者達はそれを一向に気にする様子がないと言うことだ。
時には寝転がり、時には蹲って、ただ余所者が目の前を通り過ぎていくのを眺めているだけだ。男も女も子供も老人も、皆一様に油の浮いたようなぎらつく目を目前を歩いていく陸王と紫雲に向けている。
何かを言いたげな目。
何かを含んだ目。
様々な目が二人を見遣っている。
しかしその誰も彼らに声をかけることはなかった。ただ通り過ぎるのを見つめるのみだ。
二人のどちらかに隙が出来れば、その時は一斉に襲いかかってくるだろう。
だが、浮浪者とも貧民ともつかない者達が付け入るような隙など、二人は見せない。
暫くそんな目に晒されて進んだ頃、陸王は不意に足を止めた。その足元には一人の老人が寝転んでいる。
伸ばし放題のままに伸ばされた、汚れた灰色の髪と髭の老人。暗くてはっきりとは分からないが、全身汗と垢にまみれて、着ているものも麻のぼろ一枚だけのようだった。しかしそれでも、その身体が貧弱に痩せこけているのだけはよく分かった。無論、それは年のせいばかりではない。碌な物を食べていないせいだ。
まるで老人は、枯れ木と軽石で作った歪な人形のようだった。
だが老人は目の前に現れた陸王を黄色く淀んだ目で見上げていた。
老人の元にくるまでに向けられた、油が浮いたようなぎらついた眼差しではない。もっと奥深くに何かを隠している眼だった。
しかし、その目は不意に伏せられた。
まるで、自分を見下ろしている陸王には興味がないとでも言うように。
折り曲げた枯れ枝のような腕を枕代わりに、地べたで眠りにつこうとしている。
それを遮るように陸王は声をかけた。
「爺さん、聞きたいことがある。起きろ」
陸王独特のぶっきら棒な声音だった。声をかけると同時に、老人の肩の辺りを足で小さく小突いてもみた。
だが老人は、それに反応を示さない。飽くまで腕枕のまま目を閉じているだけだ。このまま無視を続けるつもりなのだろうか。
陸王はもう一度肩を小突いて声をかけた。
「聞きたいことがある。起きろ」
流石に二度蹴られ、老人はじっとりと濁った眼を陸王に向けた。陸王を地べたから見上げ、罅割れてはいるが、意外としっかりとした声を出す。
「何か用か、若造」
「いい加減にしろ。俺はさっきから二度も聞きたいことがあると言っているだろう」
吐き捨てるように言い遣り、
「これで三度目だがな」
嫌悪に満ちた表情を晒し、その場にしゃがみ込む。
それに合わせるようにして老人も起き上がったが、その途端、酷い臭いが鼻をついた。体臭を通り越した汚れの臭いだ。その臭いは、立っている紫雲のもとまで漂ってきた。
あまりの酷さに、陸王も紫雲も思わず顔を顰めてしまう。
「ひでぇ臭いだな」
陸王からは、無意識のうちにそんな言葉まで漏れていた。
「こんな年寄りを叩き起こしておいて、言いたかったのはそんなことか? だったら帰れ」
にべもなく言って、老人はまた横になろうとした。
が、それを遮るように陸王は声をかけた。
「待て。聞きたいことがある。一体、何度同じ言葉を言わせる気だ」
「さてな」
嫌ったらしい笑いを口元に浮かべて言う様はなんとも憎らしかったが、だからと言って手がかりの糸をここで手放すわけにもいかなかった。
「ったく、このくそ爺。少しぐらいは人の話に耳を傾けたらどうだ」
「どうして儂がお前の話を聞かなけりゃならんのだ」
「この辺りを歩いていて、俺達のような余所者に欲丸出しの目を向けなかったのは、爺さん、あんたくらいだ」
その言葉を聞いて老人は鼻で笑った。
しかし陸王は気にせずに続ける。
「確かな情報を持つ奴ってのは鷹揚に構えてるもんだ」
言ってから、陸王は辺りに目を馳せる。
近場にいる者は皆、陸王達を凝視していた。こんな場所に来る者と言えば、ここの住人にとっては金蔓なのだ。相手によっては追いはぎの標的にもなろうし、いい客にもなり得る。
陸王を見ている者達は、そのどちらなのかと品定めをしているのだ。
それを見遣って、
「あんな連中が、俺の欲しい情報を持っているとは思えん」
それから老人にもう一度目を戻した。
「だが、あんたならそいつを持っているはずだ。それも半端なもんじゃねぇ。完璧なやつをだ」
「根拠としては薄いな」
「まさか追い剥ぎをするほど元気ってわけじゃあるまい」
言って、含んだような笑みを浮かべた。
「侍にしては、少しは頭が働くようだな」
陸王の腰に差している刀を見て言う。
「偏見かよ」
老人はそれには答えず、面倒臭そうな欠伸をしてから汚れきった頭をばりばり掻いた。それと共に、ふけだか虫だかがばらばらとこぼれ落ち、悪臭が漂ってきた。口臭も体臭も全く酷いものだった。
しかし陸王はそれに襲いかかられても、もう反応は示さなかった。そんなものを気にしていたら出来る話しも出来ない。だから敢えて、それに挑むように老人に近付いた。
いや、話をほかの者に聞かせたくもなかったのだ。
「なぁ、爺さん。あんたが今までどんな侍を見てきたのかは知らんが、そんなことは俺の知ったこっちゃねぇ。俺はただ情報を買いに来ただけだ。それ以上でも、それ以下でもねぇ」
「情報なぁ……」
言う老人の声はどこか渋るような響きを伴っていた。
無論、陸王も相手がそう出ることは承知の上だった。なんの見返りも提示せずに情報を貰おうとは思っていない。
「俺の期待に充分応えてくれるなら……そうだな、銀貨三枚出す。悪かねぇだろ?」
一般人が一ヶ月を過ごすには銀貨が一〇枚あれば充分過ぎるほどこと足りる。普通は銀貨は両替して銅貨にして使うのだ。銀貨一枚で銅貨三十枚になる。貧民窟の住人には決して悪くない条件提示だった。
しかし老人は独り言ちる。
「……三枚か」
そう言い、老人は目を細めて噛みしめるような声音を出した。
陸王はそれを承諾の意と捕らえた。
だが、
「何を知りたいかにもよるな」
催促のような言葉がすぐ後に続く。
思わぬ返事を耳にして、老人の強欲さに陸王は唖然とした。




