第十六話 鳩の血(ピジョンブラッド)
一時課(午前六時)の鐘も鳴り、宿屋の中も少しずつ賑やかになってくる。
それぞれが起きだして身支度をしたり、食事に降りていく者など、時間が経つにつれて人が動き出したからだ。
そんな中でも、陸王達は比較的ゆっくりとしていた。
いや、ゆっくりしようとしていた。
三時課(午前九時)には盗賊組織に向かわねばならないというのに。
雷韋はもう完全に本調子に戻ったと言うが、調子の悪いときの雷韋を見ているためか、陸王はどうしても重い腰を上げられなかった。今だって、雷韋には人の思念が聞こえているはずなのだ。精霊の声を掻き消すほど強い思念が。そのせいで雷韋ははぐれた陸王のあとを追うことが難しかったのだから。
それを思うと、せかせかしてまた雷韋と歩調を合わせることが出来なくなるのが嫌だったのだ。
しかしそろそろ食事を取りに行ってもいい頃だった。もう一時課から小一時間ほど経っている。
それになんと言っても雷韋が煩い。顔を洗って髪を結った途端、腹が減ったと騒ぎ出したのだ。煩いが、こんな雷韋を見るのもまたいいだろうとも陸王は思う。
「めっし、めっし、めっし~!」
食事をするのに降りる段になると、妙ちくりんな歌を歌いながら雷韋が一番で部屋を出て行った。
「飯は逃げんぞ。少し落ち着け」
少々慌て気味に陸王は雷韋を追ったが、雷韋は階段のところまで来るとくるりと振り返った。
「俺、昨日からなんにも食ってないんだぜ? 気合い入れてんの!」
言うだけ言うと、そのままばたばたと階段を慌ただしく降りて行ってしまった。
「ま、仕方ないんじゃないですか? 食べることが一番好きなんですから」
「あいつはジャラジャラも好きだろう」
呆れたように陸王が言う。
「ジャラジャラ?」
紫雲が部屋に鍵をかけようと戻ってくる陸王を見返して、不思議そうに鸚鵡返す。
「耳飾りだ、首飾りだ、腕輪だのと。昨日、あいつがいなくなったのはそのせいもある」
言いながら、腕や首回りを示してみせる。
「ちょっと金に余裕が出来たからって前の街で買って、ジャラジャラつけていただろう」
紫雲は、「あぁ……」と納得するように、紫雲も雷韋が一式揃いの装飾品を買っていたのを思い出す。
だが、さっき出て行った雷韋は耳飾り一つ身に付けていなかった。陸王が買い与えた『鳩の血』もだ。それを指摘すると、陸王が唇を曲げて言う。
「あれは俺も見ていない。雷韋の荷物は崩れた別邸の下だ。おそらくそこに入れてあったんだろうさ」
小さな耳飾りだからな。そう言って、鍵をかけ終えると続ける。
「雷韋の新しい装飾品は取り払って、俺の荷物の中に入れてあるが、ま、そいつはあとで返すさ」
「ですが、それを気にする様子もないくらい、今はお腹が空いていたのでしょう。食欲には勝てなかったんですよ」
困った風に紫雲は笑った。
「さてな」
不機嫌に言うわけでもないが、面白そうでもなく言う。
陸王は「行くぞ」と言って、今度こそ本当に雷韋を追って紫雲と共に階下へ降りた。
階下へ降りると、大きな声が二人を呼ぶ。雷韋だ。お陰で、周りから一瞬で耳目を集めてしまっている。
「馬鹿か、お前は。大声出すんじゃねぇ。一気に注目の的だ」
雷韋のいる卓に着くと、陸王が迷惑げに言う。
「だって、大声出さなかったらあんた達に気付いて貰えないだろ? 思ってたよりも、混雑してるからな」
三時課まで二時間残したこの時間は、朝食を取ろうと宿の客が一番集まる時間帯だった。夜と違って、本来、朝の常連の姿は少ない。朝は独り身の者が来る程度だからだ。大抵の男は所帯を持っているから、朝は食堂には来ない。その代わり、夜は軽く家で食事を取ってから飲みに来る。
そんなわけで、常連客は少数のはずだ。それでも食堂には、人の姿も多く賑わいがある。
雷韋は先に食事の注文はしたらしく、陸王と紫雲は給仕の女を呼んで注文していく。とは言っても、すぐに出てくる昨夜のあまりものにした。
今日は事情聴取があるからだ。もしかしたら昼頃まで優にかかるかも知れない。それを思えば、朝の時間くらいはゆっくりしたかったのだ。
せめて、三時課までの間くらいは。
が、その思いはいとも容易くぶち壊された。
一番初めに気付いたのは紫雲だった。
昨夜、央華の別邸に向かったときに、盗賊組織の男達を率いてきた男が姿を現したのを目にしたからだ。
そのときには食事も皆、半ばまで終わっていたが、朝っぱらから邪魔をされるのは少々気に食わない。とは言え、無視することも出来ない。紫雲からも央華の商売の中身はあらかた説明したが、現場に殴り込んだ陸王と攫われて売りに出されていた雷韋からも直接話を聞きたいのだろう。実際、今日は話を聞きたいということは通達されていたのだし。
男には連れが一人いたが、自分達を見ている紫雲に気付いたのか、すぐにもう一人と一緒に卓へとやって来る。そして、食事が終わったらすぐにでも盗賊組織へ来るよう言われた。向こうも忙しいのだろう。伝えるだけ伝えて行ってしまおうとするのを陸王が言葉で捕まえた。
「ちょっと待て。犯人はどうなった」
男は振り返り、
「央華はあの後すぐに捕まえた。あの場にいたんだろう客達もな」
どうやら央華も客達も、皆、市門の門兵を金で黙らせて逃げ出そうとしたらしいが、兵士達の方が上だった。金は受け取るだけ受け取って、その場で逮捕してしまったと言うのだ。その際、連れていた獣の眷属達は盗賊組織で保護し、預かっているという。皆、阿片にやられて、廃人のようになっていたらしいが。買い手の金持ち共の邸からも、何人も売買された犠牲者を発見したということだった。彼らもまた、廃人同然になっていたらしい。しかも、封珠縛で絡め取られたままだったそうだ。
陸王はその話に反吐でも吐きそうな口調で、「くそ野郎共が」と小さく呟くのが雷韋と紫雲にだけ辛うじて聞こえてきた。
そのあとは致し方なく食事を早めに終わらせ、盗賊組織の建物まで行くことにした。
盗賊組織の場所はなんとか紫雲が覚えていたので、少し迷いはしたものの、順調に辿り着いた。
建物はかなり立派なものだった。煉瓦造りの三階建てで、中に入ると奥の方は扉の間隔が広く取られていた。一部屋一部屋が広いのだろう。大勢で集まる会議室か何かのようだ。
陸王達は組織の入り口に立っていた一人の男に声をかけて中に入ったが、すぐに来いと言われたのにもかかわらず、中から迎えに来る様子がなかった。そんな態度に、陸王は苛立ち紛れに舌打ちをする。それを雷韋が珍しく諫めた。
「みんな、昨日の件で忙しいんだろ。しょうがないって」
「つってもな、こっちは催促されて飯を掻き込んできたってのに……」
面白くなげに言う陸王の目が、雷韋の耳元に釘付けになった。
その陸王の視線に気付いて、雷韋が不思議そうな顔をする。
「何? なんかあったか?」
雷韋が問うと、
「お前、いつの間にそんなもん着けて歩いてた」
陸王の指が雷韋の耳に下がっている紅玉の耳飾りを揺らした。それは確かに陸王が買い与えた『鳩の血』の耳飾りだった。血のように鮮やかな紅が輝く、涙型の耳飾り。
雷韋はそれを聞かれて、なんと言うこともなしに答えた。
「さっき、道でちょっと迷っただろ? あんときに着けた」
「持って歩いてたのかよ」
雷韋はそれに対して当然のように、うんと軽く首肯する。陸王の態度に疑問でも覚えたのか、不思議そうな顔をしている。
「雑に扱われていなくいてよかったですね」
陸王の後ろから余計な一言が飛んでくる。紫雲が揶揄ったのだ。それを耳にして、陸王は肩越しに睨み付ける。
「何話してんだよ」
「いや、特にどうということはねぇが、雷韋、一つだけ言っておくぞ」
雷韋はきょとんとした顔で陸王を見上げている。
「光もんが好きなのはいい。だが、あまり高価そうなもんをつけるな。昨日攫われたときに新しいのをつけていただろう。一応、あれは俺が預かっているが」
「あ、うん」
叱られていると理解して、雷韋は足下に視線を落とした。
「こんな街じゃ、お前はいい獲物だ。そうじゃなくとも、獣の眷属は綺麗な目鼻立ちをしてるんだ。それを余計に煽ってどうする」
この際だからと、陸王の小言はまだ続いた。以前、雷韋が言っていた人攫いや、妙な男に女と勘違いされたりしてきた経験のことだ。そんなことが続いたから、光り物を着けるのをやめたのだろうと叱責される。




