04 白とは言えない結婚
レナリアが目覚めたのは、陽が高く昇った頃だった。軋む身体をゆっくりと起こすと、すぐ隣で眠っていたはずの男——もとい、夫の姿はない。
サイドテーブルに置かれた紙に流れるような筆致でレナリアに向けたメッセージが残されていた。
『おはよう——いやおそよう、俺の花嫁さん。昨夜はいい夜だった。出仕しないといけないから俺はもう行くけど、君は無理しないようにね』
そこまで読んだところでレナリアは紙を破り捨てた。すばやく呪文を唱え、ちらばった紙の残骸を一瞬で燃やし尽くす。重だるさの残る身体を引きずって身支度を整えると、寝室を出た。
「あら、奥様。もうお加減は大丈夫なんですか? 旦那さまから起こさないようにと言われていましたのでお声がけしませんでしたが……」
「私は平気よ、ロッシ夫人」
ミレルディの女たるもの、いつだって毅然としていなくては。気を抜くとふにゃふにゃと崩れてしまいそうになる姿勢を階段の手すりに掴まることでどうにか持ち直した。
「そ、そうですか……? 朝食は食堂に用意していますので」
「ありがとう」
通いの使用人であるロッシ夫人が廊下の向こうに消えていったのを見て、気持ちが一気に緩んだのか何もないところで躓きそうになった。
食事を終えると、レナリアは自らの思考を整理するためにも与えられた自室に引きこもった。
あの鼻持ちならない男——ジュリアスと、レナリアは白い結婚どころではなく……夫婦となってしまった。いまさら離婚したところで、悪評はレナリア側についてまわるだろう。
何もかも手遅れ、打つ手なし、といったところか。
日記帳を開けば考え中だった魔術符の走り書きが並び、こういうときに役立ちそうな情報は何ひとつ書き残してはいない。
そのとき、こんこん、と窓が叩かれる音がした。カーテンを開けるとそこには、灰色の毛並みの子猫がちょこんと座っていた。
使い魔である。
窓を開け、抱き上げてやると「やっと入れてくれた」と子猫は安堵の声を漏らした。ちりりん、と首に結えられた鈴が鳴る。
「ごめんね、アリア」
「大変だったんだよ。この屋敷やたらと結界が張ってあるし。くぐり抜けるのにもコツが必要でね」
ごしごしと前足で顔をこすりながらアリアはぶつぶつ文句を言った。
ジュリアスがレナリアを連れてきたときに、そういえばそのようなことを話していたっけ。内側にいるとそこまでの違和感はないのだが、確かに敷地内に足を踏み入れるときに背中を冷たい手で撫でられたような、薄気味の悪さのようなものを感じた。
「はい、これ。おばば様からお薬だって。レナリアが生まれたての子鹿みたいになってるかもしれないからよく効くやつ用意したらしい」
「……それはどうも、ありがとう」
背中に括り付けられていた薬入りの小瓶を受け取る。そこから真珠色の錠剤を一粒てのひらに取り出した。口に含んで奥歯で噛むと、じわと薬草の香りが鼻に抜けていく。昔から体調を崩したときにもらうキアラ特製の魔法薬は、レナリアのために調合された世界にひとつだけの品だった。
「もう嫌……ミレルディに帰りたい」
「レナリア……」
ぽつりとこぼした一言に、アリアが毛繕いをやめて心配そうにこちらを見上げた。結婚した翌日にもう家が恋しくなってしまう。これではまるで子供だ、と思いながらも心が追いつかない。
突如として込み上げた感情を捨て去るつもりで大きく息を吐き出すと、アリアを抱えて窓を開け放った。
「どうしたのレナリア」
「いえ、少し気晴らしでもしようかと思って」
小さな声で念じると、立て掛けておいた部屋の壁から杖が飛んできて、レナリアの左手にすっと収まった。
「『飛翔』」
「にゃにゃっ⁉︎」
杖に跨ると、窓枠を蹴って飛び立った。レナリアの肩にアリアがしがみつく。ぐんぐん上昇して、雲の上まで突き抜けて青空の中に吸い込まれる。
「やっぱり空は気持ちがいいわね」
「レナリア〜、飛ぶなら飛ぶって言っておいてよ」
「あら、ごめんなさい」
不満げににゃあにゃあ騒ぐアリアを宥めながら、王都の上空をぐるり一周する。赤い屋根のミレルディの屋敷がある一帯に近づくと、緩やかに降下を始めた。
「敷地の森の前で下ろしてあげる」
「ふう、よかった……」
地面が近づくとアリアは、ぴょんとレナリアの肩から飛び降りる。華麗な着地を決めると、寝床がある屋敷の方へと歩いていった。レナレアの使い魔というよりかはミレルディ家の使い魔なので、嫁入りには連れてこなかったが、一緒にいてもらえれば、すこしはさみしさは紛れたかもしれなかった。
ふう、と呼吸を整えてからレナリアは目を閉じる。集中、集中——。
「『転移』」
とん、と杖で地面を突くと、一瞬で先ほどまでいたジュリアスの屋敷に戻っていた。転移陣さえ描いておけば、一瞬で移動することはたやすい。自室の床に書いておいてよかった、と思ったところで背後に視線を感じた。
「お帰り、俺の花嫁さん」
「ひっ」
恐る恐る振り返れば、腕組みをしたジュリアスが扉を塞ぐようにして立っていた。
「無断で外出されるとさすがに驚くじゃないか。せめて行き先ぐらいロッシ夫人に言い置いてくれないと」
「そ、それは悪かったわね! 息が詰まったから散歩に出ただけよ……それより、あなたこそ早いお帰りね。筆頭魔術師のくせして殿下についていなくていいわけ?」
「殿下も気を遣ってくれたんだよ。せっかくの新婚なんだ、ゆっくりするといい、ってね」
ゆっくり、というところにやけに粘度を感じたのは気のせいだと思いたかった。幸運にもいまのレナリアは杖を持っている。何かあったとして反撃することは容易いはずだ。一歩こちらに足を踏み出したジュリアスを牽制するように杖を振った。
「来ないで」
「震えてる……可愛いね、レナリア。そんなに昨夜のことが気に入らない? 君の嫌がることはしたつもりはないけれど」
困惑したようにジュリアスが首を傾げる。
「あ、あんな恥ずかしいことをしておいてよくも平気な顔をしていられるわね」
「ごく一般的な夫婦の営みなんだけどな。さすがミレルディの箱入りはその手の知識は乏しいのか……」
「っ、な⁉︎ 何ですって……? 私だって必要最低限のことぐらいは知っているわよ」
安い挑発と分かっていながら、ミレルディの名を出されると簡単に乗ってしまう自分が情けない。そしてその必要最低限の知識の入手先というのが、近頃流行している恋愛小説なのだが、それを自ら暴露する気は毛頭なかった。
「へえ、じゃあ今晩もお相手願おうかな」
「こ、今晩も……?」
また足腰が立たなくなるようなことをするつもりなのか。頬を赤らめたレナリアを見てジュリアスがにっこりと微笑む。
「陛下は不仲が続くカルデローナとミレルディの仲を取り持ちたかったんだろうけれど……どうやら逆効果みたいだね。いまの君と来たらまるで、毛を逆立てた猫じゃないか」
「そ、それはあなたがいやらしい真似を——」
言いかけたところで、いつのまにか目の前にジュリアスが立っていたことに気づいて怯んだ。ふるりとわなないたレナリアの唇に、ジュリアスは指を押しあてる。
「陛下は、カルデローナとミレルディの恒久なる和睦の証を求めておいでなんだ。長年両家の不仲を気に病んでおられたからね」
「和睦の証……?」
「簡単に言えばそうだな、君が俺の子を腹に宿せば満足するんじゃないかな」
「な——」
絶句したレナリアに、ジュリアスは苦笑した。
「さすがに直接的すぎたか……淑女に対する配慮が足りなくて失礼したね。まあこのやり方が最善というわけでもない。それに、君に求められていないのに抱くのは俺としても不本意だ」
「……だったらあなたには最善の策とやらがあるとでもいうの?」
間近で見上げたジュリアスの青い眸の中にはレナリアが映りこんでいる。ふ、と唇が歪められた。
「要するに、ミレルディとカルデローナが手を取り合った、ということを対外的に示していけばいい。世間から見た俺たちといえば、王命により無理やり結婚させられたふたりという印象が強いわけだし」
「印象どおりじゃない」
呆れたとばかりに嘆息したレナリアが、杖を握り直した。このままジュリアスを昏倒させて逃げのびることは可能だろうか、と考える。いや、無理だろう。すぐ近くにジュリアスの杖もある。本気でお互いが魔術符を奏でたら、衝撃でこの屋敷が吹っ飛びかねない。
「そこをひっくり返すんだよ。俺たちが仲の良い夫婦であることを世間に見せつけるんだ」
「世間に……」
嫌な予感がする。
手始めに、三日後の王太子主催のダンスパーティーに一緒に参加するのはどうかな? と満面の笑みで提案してきたジュリアスに、レナリアは言葉を失った。




