11 思い出の場所
はぁ、と深く息を吐き出して重だるい身体を持ち上げる。こうして目が覚めるのも何度目だろうか。ロッシ夫人は買い物に出ているようで、屋敷内にはひとの気配がない。用意してくれていた朝食を温めなおし、レナリアはひとり食堂で食事を摂った。
ジュリアスはずいぶん前に出仕したようで、例によって枕元に走り書きのようなメモが残されていた。口に出すのも憚られるような、砂糖まみれの甘い言葉をよく思いつくものだと呆れてしまう。
レナリアは夫であるジュリアス・カルデローナの奇行に困惑する日々を送っていた。
嫌われている、はずだ。
それなのに毎日のように花束などの贈り物を買って帰ってくるし、隙を見せればすぐキスをしようとする。そこにはある種の執念めいたものまで感じるほどだ。
なんだか怖い、と思う時さえある。
温めすぎて焦がしてしまった目玉焼きをかじりながらぼうっとしていると、庭の方からにゃあん、と甘えるような子猫の声が聞こえてきた。窓を開けて庭を覗き込めば、使い魔のアリアが片手を上げて挨拶してくる。
「レナリア〜」
「アリア、今日はどうしたの」
灰色の毛並みの子猫を抱き上げ、部屋の中に招き入れると腕の中で伸びをした。
「ようすを見にきたんだ〜。最近ミレルディの屋敷に姿を見せないからさ、おばば様が心配していたよ」
「そう……」
実家であるミレルディの家に戻るから、ジュリアスはほかの女性をこの屋敷に連れてくればいい——。
そう言ってしまったことで、レナリアが実家に立ち寄ることにジュリアスはあまりいい顔をしなくなっていた。顔色をうかがう必要なんてないのだが、彼の視線がぞっとするほどに冷たくなった瞬間がどうしても忘れられなくて、つい足が遠のいていた。
「あ、そうだ。レナリアあてにミレルディ家に届いていた手紙を持ってきたよ」
「あら、ありがとう」
よく見ると背中に手紙の束が紐でくくりつけてある。結えてあった紐を丁寧にほどき、一枚一枚、差出人を確かめた。
これは通っていたジュエリーショップから新作の案内状、これは行きつけの魔道具屋から……と眺めていると、その中になつかしい名前が記されてるのを発見した。フローレンス魔術学校時代の友人からである。
中を開けて便箋を取り出せば、ふわりと香水の匂いがたちのぼる。甘い果実のようなこの香りを好んでいた友の顔を思い浮かべながら、文面に目を通した。
レナリアが結婚したことへの祝福と、また機会があれば会いたいというような内容が綴られている。手紙には「あのジュリアス」とレナリアがね、という驚きが滲みに出ていた。
「私だっていまだに驚いているし、慣れないわよ……」
ぐしゃりと手紙を握りつぶしそうになったのをなんとか堪えた。
「レナリア〜ため息ばっかり吐いてると、幸せが逃げ出すよ?」
「アリアったらお祖母様が言いそうな迷信を……」
「ねえねえ、今日は何をする予定なの?」
長い尻尾をゆらゆら揺らしてアリアが尋ねてくる。
「遊ぶ? 遊ぶ?」
「遊ばない……ミレルディの書庫に眠っていた魔術符の解析がちょうど山場なのよ」
先日、実家に戻ったときに取ってきた古代語の辞書を使って、自身の研究をすすめることに夢中になっていた。ミレルディ家の魔女たるもの、常に向上心を持っていなくては——とレナリアが意気込んでいると、
「ねえねえ。レナリアの魔術符研究って、趣味なの? 仕事なの?」
子猫のことにやけに鋭いことを訊いてくる。
「うっ。確かに、金銭をもらってやっているわけじゃないけれども……!」
魔術学校を卒業したとき、レナリアにも宮廷魔術師として働かないか、との声がかかった。でも断って実家であるミレルディ家で魔術符研究をするという道を選んだのは、祖母であるキアラの影響が大きい。
『お前はカルデローナに混じって宮廷勤めなどせずともよい——ミレルディの屋敷で魔術の修行を続けるのじゃ』
いずれは婿を取り、レナリアもいずれはミレルディ家当主となることが予定されていた。祖母はまだ現役だし、祖母の次の当主は母だからずいぶん先の話ではある。
とはいえその計画も、国王陛下の一言であっさり崩れ去ったわけであるのだが——ますます深くなりそうなため息をぐっと飲み込んで、レナリアは壁に立てかけてあった杖を手に取った。
「レナリア?」
「少し気分を変えて、フローレンス魔術学校に行くことにするわ」
にゃにゃ、とアリアが首を傾げる。
「母校で何をするつもり?」
「大図書館に行こうかと思って。私、いちおうフローレンス魔術学校の臨時研究員という扱いだから書物の閲覧ができるのよ」
魔術学校を卒業する折、学長がミレルディの研究に役立てなさいと籍だけは残してくれたのだ。だから学校関係の施設を利用できる——と言っても、食堂と図書館ぐらいしか使うことはないのだけれど。
アリアをミレルディの屋敷に送り届けたあと、そのまま転移術でフローレンス魔術学校のある学園都市に降り立った。
レッダ地方の風光明媚な山々と湖に囲まれるようにして学園都市はある。ふだんは学生たちであふれて賑やかなのだが、いまはちょうど授業中なのか人影はまばらだった。
レナリアの目的地である大図書館は大きな石造りの建物で、学園都市内にある複数の学校が所有する書物が集められた場所だ。自習スペースも広く用意されていて、静かに研究に勤しむにはぴったりの場所ではある。
「……まっすぐ大図書館に向かおうかと思ったけれど、寄り道でもしようかしら」
近くにあるベーカリーで、林檎入りのクリームをたっぷり詰めたパンを買って、湖まで足を伸ばすことにした。やわらかな風が吹く小道を歩いていると、学生時代に戻ったような気分になる。
湖に面したベンチにひとり腰掛けると、首元に巻きつけていたストールを外して膝にかけた。
静寂を破るようにして真っ白な羽の水鳥が羽ばたき、隊列を成して空へ飛び立っていく。遠ざかるその影を眺めながら、先ほど買ったパンをかじれば甘酸っぱいクリームが口の中に広がる。懐かしい味だ。
あの頃も、時々、気晴らしに湖を訪れたものだ。青く澄んだ水面を見ていると波打っていた心がなだらかになっていくのがわかる。
「ジュリアス・カルデローナの妻、か……これほど自分に似合わない肩書きもないわね」
嘆息しながら目を閉じる。
カルデローナにだけは負けてはならない。
そして、ミレルディのために生きることが、レナリアの存在意義だった。母も祖母も優しかったが、レナリアが「そう」あることを望んでいたはずだ。
でも、いまの自分は——学生の頃に思い描いていた未来を歩んではいない。何もかもが中途半端だ。
ジュリアスに……カルデローナに勝ちたかった。
唯一、上回ることができたのは卒業試験のときのあの一回だけだ。
『卒業試験を主席で合格したレナリア・ミレルディ』
ようやく報われたと思った。一生かなわないと思い知らされていたジュリアスに勝ったのだから、誇っていい。それなのに——心には靄がかかっていた。
いまも、ずっと。




