10 妻からのお願い
「おっと——この展開は予想してなかったな」
ジュリアスは降参、とでも言いたげに両手を上げた。
王宮での勤めを終えて帰宅した夫を玄関で出迎えたレナリアが、杖の先端を首元に突きつけてきたのである。
油断している瞬間こそ、最大の攻撃の機会。フローレンス魔術学校においても戦闘魔術の講義で初歩の初歩として教えられることだ。魔術師は一般的に防御力が弱く、魔術が発動するまでは無防備になることが多い。物陰に隠れて敵を叩く、というのが卑怯の誹りを受けようとも正攻法となる。
「ねえ、旦那様? 私、あなたにお願いがあるのだけれど」
「奥様の可愛いお願いならなんでも聞いてあげたいと思うよ。心からね——とりあえず、杖を下ろしてくれると助かるかな。緊張の余り反撃してしまうと君の身が危ない」
あくまでレナリアを案じるようなことを言って従わせようとしてくるところが嫌いだ。嘘くさい。
反撃されようとも、即座にその反撃をする準備はあるのだが……この屋敷を粉々に破壊してしまいかねない。渋々杖を下ろすと、あからさまにジュリアスが安堵の表情を浮かべた。
「ロッシ夫人の姿が見えないようだけど」
「夫人には私からお願いして今日のところはお帰りいただいたのよ。では旦那様、お食事にされますか?」
「おお、いいね! 新婚っぽい」
「まったく、あなたの言っていることは時々わからないわ」
婚姻してからまだ数日しか経っていないのだから、新婚に決まっている。呆れてため息が出そうだ。
ロッシ夫人が下拵えしてくれていた料理を火の魔術で温め直し、仕上げに香辛料を振りかけて完成させる。トマトと鶏肉の煮込み料理を皿によそってジュリアスの前に運ぶと瞳を輝かせた。
「レナリアが温めてくれた料理か……」
「本当に温めただけ、ですけれど!」
自分は何もしていないことを強調したのだが、ジュリアスは何故か嬉しそうだった。正面の席につき、神に祈りを捧げてから食事を始める。「美味しいよ」と微笑まれたので「ロッシ夫人に感謝して頂戴」とそっけない返事をした。
「今日は、朝の宣言どおりお早いお帰りだったわね」
「レナリアが待っていると思うと仕事が捗ってしょうがなくてね……どうだった、実家は?」
ジュリアスの軽口は無視をして、レナリアは「どうと言われても」と困惑気味に言った。
「従兄のエドアルドに会ったわ。相変わらず、宮廷魔術師の下っ端としてこき使われているようだった」
「ふうん……レナリアに泣きつくとは情けない」
「べつに泣きつかれたわけじゃないわよ? ただ大変そうだなと思っただけ」
「へえ。君はあいつを庇うんだね」
ジュリアスは面白くなさそうに、スプーンで煮崩れしたトマトをつついている。
「……まさかとは思うけれど嫉妬しているの?」
「そうだよ」
ただの冗談のつもりで訊いたのに、予想外の返事があって戸惑った。
「結婚したばかりの自分の妻が口にするほかの男の名前ほど、腹立たしいものはない」
「……形ばかりの結婚でもそんなものかしら」
「そんなものだよ。だから気をつけてほしいな」
冷ややかな空気を纏いながら、にっこりとジュリアスは微笑んだ。
でもエドアルドはただの従兄だし——ジュリアスだって、無理やり結婚させられた夫なのに……そんな配慮が必要なのかしら。
千切ったパンを噛みながらレナリアが考え込んでいると、ジュリアスが面白くなさそうに言った。
「その君の従兄だけれど、今日、君のお母様——ベルタ様の付き添いとして謁見の間に来ていたね」
「そう、そうなの。ミレルディの水晶玉に妙な影が映り込んでいて……たしか前おなじ影が映った二十年前は、大きな飢饉が起きたってお祖母様が」
レナリアの説明に、ジュリアスも頷いた。
「その件に関係あるのかはわからないけれど、王宮の書庫で異様な魔力反応を検知したから調べていたんだ。結果として、ちょうど二十年前に発動した呪詛の痕跡があった」
「二十年前……一致しているのが気になるわね」
考え込んだレナリアは半ばひとりごとのように口にした。
「呪詛ということは、飢饉も今回の影の要因も、魔術師が関与しているということ?」
「何かよくないことが起きる可能性がある、ということしかいまはわからない。何かこの国に危険が迫っているのかも——レナリア?」
唇を強く引き結んだレナリアを見て、ジュリアスが首を傾げた。
「どうしてあなたはそんなに落ち着いていられるのよ! 私に何か出来ることはないのかしら? 魔術師がそんな不名誉なことを企てているのだとしたら絶対に止めなくちゃ……」
ふるふると握りしめた手が震える。
呪詛というのは遥か昔に禁忌として定められ、いまや誰も学ぶものがいない魔術のひとつだった。
ひとを傷つけ、害する悪意のためだけに扱われるものは軒並み禁止となっている。そうした効能を持つ魔術符が編めないように、魔術学校では入学当初、誓約するのが慣わしだ。
「誓約を破ると魔術を扱うための制御盤となっている杖は剥奪され、魔術符を発するための声が封じられる。つまりは魔術師にとっての死を意味するのに、どうして……」
「そうまでして叶えたい望みがあったんだろうね。気持ちはわからなくはない」
ジュリアスの醒めた声音にレナリアはぎょっとした。
「すべてを擲ってでも手に入れたいものがあったのかもしれない。その点、いまの俺は満たされているから関係はないけれど」
「ねえ、あなたが欲しかったものって」
「ところで」
ジュリアスがレナリアの言葉を遮って尋ねた。
「レナリア、俺へのお願いって?」
食器とスプーンがたてるかちゃかちゃという音だけが静かな食堂に響く。背中に嫌な汗をかいていた。
何故、自分が緊張しているのかはわからない——ただジュリアスのまなざしが自分に向けられているだけなのに。
レナリアは言うならいまだ、と信じて声を発した。
「私たち、別居しない?」
ジュリアスの表情が固まった。
感情の浮かばない顔はまるで彫像のように美しく、一瞬、レナリアは見惚れた。しばらく時が止まったような沈黙が満ちて、どうしたものかと思っているとジュリアスがようやく閉ざされていた唇をぎこちなく動かした。
「……どうして?」
「えっ? あぁ、あなたは私のことを嫌いでしょう? だからほら、ジュリアスは私みたいな形ばかりの妻じゃなくて、本当に好きな人と一緒に暮らして私は実家で過ごす……というのがお互いにとってちょうどいいと思って」
本当は新婚初夜の前にこの話をするべきだったのだが——うっかり流されてしまった。今回実家であるミレルディ家に戻って、決心が固まったというわけだ。
「君は……」
ジュリアスは顔を手で覆って、大きなため息を吐いた。
「何もわかっていないみたいだね」
ゆっくりと椅子を引いて立ち上がると、ジュリアスはレナリアの背後に回り込んだ。大きな手のひらが頬を撫で、顎のラインを通り、くすぐるように触れていく。もぞもぞと動いたレナリアを咎めるように、ジュリアスが「じっとしていて」と囁いた。
「ジュリアス?」
きょとんとしているレナリアが振り向くと、唇に熱が重なった。
「いくら可愛いレナリアのお願いでもそれは聞けない」
「ど、どうして」
「それを自分でわかるようになってほしいんだよ、俺は」
懇願するように言って、ジュリアスはふたたび啄むように口付けを落とした。




