10-4.首輪の反転
寄生虫は、宿主の神経を乗っ取る時、痛みを与えない。
痛みを与えれば、宿主が暴れるからだ。
通信が入ったのは、ビルのエレベーターが一階に着く前だった。
カナメの端末が無機質な着信音を鳴らす。画面にはクロダの名前。発信から応答までの間隔を、カナメは正確に四秒空けた。早すぎれば待ち構えていたように見える。遅すぎれば、事態の深刻さに気づいていないふりが崩れる。
「——はい」
『すぐ戻れ!! 今すぐだ!! システムが——俺の、俺のアカウントが——何かされてる!! ハッキングだ!! すぐに何とかしろォ!!』
端末のスピーカーから飛び出す声は、もはや人語の体をなしていなかった。三十秒前まで葉巻の煙越しに「犬」を見下ろしていた男の喉から出る音とは、とても思えない。
カナメは端末を耳から離し、通話を切った。
レイナが横目で見ている。その鉄色の瞳に、問いかけの光はない。答えを既に知っている者の、静かな観察だけがあった。
「戻る」
カナメは一言だけ告げ、エレベーターの上昇ボタンを押した。
急がなかった。走らなかった。心拍数が変動した形跡も、呼吸のリズムが乱れた兆候もない。非常階段を駆け上がることもしない。通常運転のエレベーターで、通常の速度で、最上階へ戻る。
扉が開いた先に広がっていたのは、崩壊した王国の残骸だった。
バカラのグラスの破片が床に散乱している。ヴィンテージのスコッチが一本倒れ、琥珀色の液体がガラステーブルを伝って絨毯に染みを広げていた。ホログラフィックの錦鯉だけが、何事もなかったかのように壁面を泳いでいる。
クロダはモニターの前で膝をつき、両手で端末を握りしめていた。顔面は蝋のように白く、脂汗が襟元を濡らしている。カナメの姿を認めた瞬間、這うようにして近づいてきた。
「た、頼む——頼むから何とかしてくれ! 俺の口座が、全部——流れてる、金が、止まらねぇんだ!」
三十分前に「ペット」と呼んだ相手の足元に、文字通りすがりついている。プライドという概念が、この男の辞書から物理的に消去されたかのような光景だった。
「上にバレたら終わりだ……シノノメの若頭に知られたら、俺は……」
殺される。その二文字を口にする勇気すら、もう残っていない。
カナメはクロダを見下ろした。その視線に軽蔑はない。怒りもない。そこにあるのは、障害報告のチケットを確認するシステムエンジニアの、職業的な無関心だけだった。
「端末をお借りします」
クロダの手から端末を取り上げ、モニターの前に座る。指がキーボードを叩く音だけが、静まり返った執務室に響いた。
自分が設計した流出経路を、自分が遮断する。マッチポンプの手順は事前に組み上げてある。外部からの高度なサイバー攻撃——複数のプロキシを経由した、国際ハッカー集団による標的型侵入——その痕跡を偽装するスクリプトが、裏側で静かに走る。アクセスログの改竄。侵入経路の捏造。防御に成功した英雄譚のシナリオが、一行ずつ書き上がっていく。
四分十七秒。
カナメの指が止まった。
「……食い止めました」
振り返りもせず、モニターに表示された数字を読み上げる。
「資金の約七割は、外部の匿名ウォレット群へ分散流出。追跡は不可能です。残り三割を別口座へ退避させました。侵入経路のログも消去済みです。外部から見れば、攻撃そのものが存在しなかったことになります」
七割。消えた。
クロダの顔が、さらに二段階白くなった。蓄えた全資産の七割。何年もかけて、シノノメの目を盗み、上納金から少しずつ抜き取って積み上げた金。それが四分で蒸発した。
だが——残りがある。三割が手元に残った。そして、何より。
「……バレて、ねぇんだな? 上には」
「はい。痕跡は処理済みです」
クロダの膝が、完全に折れた。絨毯の上に崩れ落ち、両手で顔を覆う。安堵と絶望が同時に押し寄せ、処理しきれない感情が嗚咽として漏れ出していた。
だが、その安堵の直後。
クロダの淀んだ脳裏に、一つの打算的な思考が沸き上がった。
……こいつ(カナメ)を今ここで殺してしまえば、俺が失態を犯した事実は誰一人知らずに闇に葬れるのではないか。残った三割の資金を取り返し、システム屋の死体を適当な抗争の巻き添えにでも偽装すれば——。
「今、私をこの場で消去すれば、すべてが丸く収まると再計算しましたね」
カナメの声が、クロダの思考を背筋が凍るような正確さでなぞった。
「て、てめぇ……! 下請けの分際で、俺の面を——」
図星を突かれたクロダが恐怖を逆ギレの怒りに変え、凄んで立ち上がろうとした瞬間。
それまで微動だにしなかったレイナの左手が伸びた。
物理的な質量を伴う義体の膂力が、クロダの紺のスーツの胸ぐらを鷲掴みにし、百キロ近い巨体を絨毯から一気に吊り上げた。
「がっ……!?」
クロダの足が完全に床から浮き、気道が締まって喘ぐような声が漏れる。レイナの鉄色の瞳が、すぐ眼前にあった。マチェットを抜くまでもない。彼女の義体の指先に少し力がこもるだけで、この無能な豚の首の骨など小枝のように折れる。
レイナは殺意どころか、虫けらを見るような冷淡さで彼を宙に吊るしていた。
「——一つ、確認しておきましょうか」
カナメの声が、不意に、決定的なまでに数度下がった。
いつもの平坦なシステム屋の声音ではない。深海の底から這い上がってきたような、氷よりも冷たく酷薄な響き——絶対的な支配者のトーンだった。
カナメは冷酷な眼差しのまま、モニターの表示を切り替えた。
左側——クロダが過去三年にわたって繰り返した上納金横領の証拠。右側——対立組織「灰城グループ」へ血盟会の内部情報を売却していたことを示す、(カナメが捏造した)精緻な通信記録。
「横領の記録と、組織への裏切りの証拠。……これがシノノメの若頭の耳に入れば、あなたがどう肉塊に解体されるか。計算するまでもありませんね。私の心拍が停止した瞬間、このデータがシノノメの全幹部へ一斉送信されます。それでも、やりますか?」
吊り上げられたまま、クロダの目はモニターに映る絶望的なデータと、カナメの酷薄な顔を往復した。
そこでようやく、彼は完全に理解した。眼前に座る痩身の青年は、「便利なペット」でも「優秀な下請け」でもなかった。最初から——このビルに足を踏み入れた瞬間から、すべてを設計していた怪物だったのだ。
「……っ、やめ……わかっ……わかった……!」
気道を締め上げられながら、クロダは必死に何度も頷いた。完全に心が折れた人間が発する、無様な降伏の合図だった。
「よろしい」
カナメが短く告げると同時。
レイナが義体の手を離し、クロダの巨体がドスンと絨毯の上に無様に墜落した。
激しくむせ込み、脂汗まみれで這いつくばる男を見下ろしながら、カナメの顔から先ほどまでの酷薄な威圧感がスッと抜け落ちた。元の平坦な、天気予報を読み上げるようなアナウンサーのトーンへ、一瞬で切り替わっていた。
「では、今後の業務フローについての打ち合わせに戻りましょう」
カナメは端末をテーブルに置き、初めてクロダの方を向いた。
「今後も、これまで通り振る舞ってください。血盟会の中間幹部として。シノノメの信頼の厚い管理職として。——ただし、あなたの持つ権限と情報網は、今日から私が利用します。あなたは私の『窓口』になる。それだけです」
それだけ。
その三文字が、クロダの全存在を呑み込んだ。
主人と犬。その関係は、三十分前と何一つ変わっていない。変わったのは——首輪が、どちらの首にかかっているか、という一点だけだった。
クロダは答えなかった。答える必要がなかった。膝をついたまま、壊れた人形のように小さく頷いた。それで十分だった。
「では、失礼します。仕様変更の件は、明日改めて」
カナメは立ち上がり、何事もなかったかのように執務室を出た。
廊下に出ると、蛍光灯の白い光が二人の影を長く引いた。レイナが半歩後ろを歩く。その足音は変わらず静かだったが、唇の端に——ほんのわずかに——冷たい弧が浮かんでいた。
笑みと呼ぶには鋭すぎる。だが、確かにそこにあった。
カナメは振り返らない。表情も変えない。その意識は既に、クロダという処理済みのタスクを離れ、次の工程へ移行している。
中間幹部の権限と情報網。それを足がかりにすれば、血盟会の資金フローの全体像に手が届く。そしてその先に——シノノメの本丸がある。
エレベーターの扉が閉まる。
下降する箱の中で、カナメの目は虚空の一点を見据えていた。盤面を読んでいる。三手先を、五手先を、その更に奥を。
寄生虫は宿主を殺さない。殺せば、自分も死ぬからだ。
だが、カナメは寄生虫ではない。
宿主の神経系そのものを、書き換える側の存在だった。
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