10-5.亀裂の周波数
城壁は、外から砕くものではない。
内側の柱を一本抜けば、あとは重力が仕事をする。
司令室に、キーボードを叩く音だけが降り積もっていた。
シャドウ・バンクの地下拠点。コンクリート打ちっぱなしの壁面に、六枚のモニターの青白い光が波紋のように揺れている。空調の低い唸りと、データ転送のインジケーターが点滅する微かなクリック音。それ以外の音は存在しない。
クロダを傀儡にしてから、四日が経過していた。
カナメはモニターの前に座り、クロダの中間幹部アカウントを経由して血盟会の内部ネットワークへ潜行していた。これまでは末端の資金洗浄ルートしか見えなかった視界が、幹部権限によって数段階深いレイヤーまで開けている。通信ログ、資金フロー、人事配置、拠点間の物流データ。巨大な組織の循環器系が、モニター上に数値と波形として展開されていく。
背後では、レイナが折りたたみ式の作業台に義体の左腕を載せ、関節部のキャリブレーションを行っていた。極細のドライバーで調整ネジを回す金属音が、一定の間隔で鳴る。二人の間に会話はない。必要がないからだ。
カナメの指が止まった。
モニターの一つに表示されたトラフィックログの中に、異質なパターンが混ざっている。血盟会の内部ネットワークを流れる膨大なデータの中で、それは砂浜に落ちた一粒の黒い砂のように目立たない——通常の監視では絶対に拾えないレベルの微小なノイズだった。
だが、規則性がある。
カナメはログを二十四時間分遡り、フィルタリングをかけた。ノイズは断続的に発生していた。発信元は複数。いずれも内部アカウントだが、IDは毎回異なる偽装が施されている。そしてアクセス先は——シノノメ直轄の口座群。非合法な資金ルート。粛清対象リスト。組織内部の処刑記録。
誰かが、シノノメの暗部を——集めている。
「……奇妙だな」
カナメの独白は、モニターに向けたものだった。だが、背後のレイナの手が止まり、部屋の隅の作業机でジャンクパーツを漁っていたマウスがビクッと肩を揺らして顔を上げた。
「ど、どうしたんですか、カナメさん。ま、また何かヤバい厄介事ですか……?」
「アクセス元は偽装されているが、プロトコルの癖から見て外部のハッカーではない。血盟会の内部の人間だ。それも、複数」
レイナはドライバーを置き、義体の左腕を軽く握って動作確認をしながら視線だけを向けた。マウスもパーツを放り出し、おずおずとカナメのモニターの横へやってくる。視線はカナメの顔ではなく、足元やモニターの端を泳いでいた。
「内部の人間が、自分のボスの弱みを漁ってるってことか」
「正確には、シノノメ個人の弱みだ。組織全体の情報ではなく、シノノメの判断で実行された非合法な処理——粛清、資金の私的流用、対外的に隠蔽された案件——それだけを選別して収集している」
カナメの指がキーボードの上で静止している。画面のデータを睨む目は、回路図の不良箇所を特定するエンジニアのそれだった。
「シノノメという化け物の力で一枚岩に見えた血盟会だが——どうやら、腹の中はそうでもないらしい」
恐怖で縫い合わされた忠誠は、恐怖が永続する限りにおいてのみ機能する。だが、恐怖が一定の閾値を超えた時、人間は別の計算を始める。「従い続けるリスク」と「排除するリスク」の天秤。シノノメの恐怖支配に表向きは跪きながら、裏では追い落としの材料を静かに備蓄している勢力。
反シノノメ派。その輪郭が、データの霧の向こうにうっすらと浮かび上がっていた。
アクセス元の特定には至らない。偽装の質は高く、少なくとも素人の仕事ではなかった。だが、存在することは確認できた。カナメにとっては、それで十分だった。
「そいつらと手を組むのか」
レイナの声には抑揚がない。質問というよりは、次の手順の確認に近い響きだった。
隣でマウスが「あ、あのヤクザの親玉に反旗翻す連中なんですか……!? や、や、やめといた方がいいですよカナメさん、絶対! これ以上抗争に巻き込まれたら、ぼ、僕のサーバーが……リリが死んでしまいます……!」と頭を抱えて震える。
「手を組む必要はない」
カナメはモニターから目を離さず、淡々と答えた。
「いつかシノノメの首をすげ替える時が来たら、都合の良い神輿として利用するだけだ。自分たちが主導したと思い込ませて、こちらの設計通りに動かしてやればいい。——クロダと同じだ。規模が違うだけで」
レイナは小さく息を吐いた。それが同意なのか、呆れなのか、あるいはその両方なのかは、本人にもわからなかっただろう。義体の左腕を回し、関節の動作音を確かめてから、ドライバーを工具箱に戻した。
モニターのブルーライトが、カナメの横顔を切り取っている。その口元に、わずかな弧が浮かんだ。笑みと呼ぶには冷たすぎる。だが、無表情とも違う。盤面に新しい駒を見つけた棋士が、次の一手を読み始めた時の——あの、静かな集中の兆しだった。
末端の寄生虫の首輪から始まった侵食は、今、巨大な獣の内臓に届こうとしている。
モニターの光が明滅する。データの海は沈黙したまま、無数の秘密を底に沈めている。
カナメの指が、再びキーボードに触れた。
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