10-3.寄生虫の晩餐
飼い犬の首輪を握る手が、最も無防備になる瞬間がある。
それは、犬が尻尾を振っていると——信じ切った時だ。
金の匂いがした。
比喩ではない。文字通り、空気に溶けた金属と合成香料の混合臭が鼻腔を刺す。クロダの「執務室」と称されたその空間は、南ブロックの歓楽街に面した雑居ビルの最上階を丸ごとぶち抜いた、悪趣味の見本市だった。
壁面を覆う電飾パネルには、意味もなく流れるホログラフィックの錦鯉。革張りのソファは本革ではなく、本革より高価な合成皮革——つまり「本物より高い偽物」を好んで選ぶ類の人間の巣だ。ガラステーブルの上には、封も切っていないヴィンテージのスコッチが三本。飾りだ。クロダが実際に飲んでいるのは、氷を山盛りにした安い芋焼酎だった。ただし、グラスだけはバカラである。
その男は、ソファの中央にふんぞり返っていた。
「——よぉ。来たか、ウチの優等生ども」
クロダ。血盟会・関東統括直轄の中間幹部。肩書きだけは重いが、実態はシノノメの築いた利権構造に寄生し、上納金の中間マージンで肥え太った管理職にすぎない。丸い体躯を紺のスーツに押し込み、首元からは金鎖が三重に垂れている。右手の葉巻は火もつけていない。雰囲気だけだ。この男のすべてが、そうだった。
カナメは無言で一礼した。その半歩後ろに、レイナが影のように立つ。
「いやぁ、聞いたぜ? 半グレの巣、一晩で更地にしたんだってな」
クロダは焼酎のグラスを揺らしながら、芝居がかった感嘆の声を上げた。だが、その視線はカナメとレイナを対等の人間として「見て」はいない。下請けの道具が、どれだけ自分の利益になるか。その対費用効果を測っている計算高い目だ。
「シノノメの若頭からの預かりモンだから、正直どんな不良債権かと思ってたがよ。使えるじゃねぇか。特にそっちの嬢ちゃん」
クロダの視線がレイナの全身を舐め回すように動く。戦闘の技量ではなく、単に女として品定めするような、ねっとりとした下卑た目つきだった。
「うちの連中が小便ちびるくらいの働きだったらしいな。まぁ、おかげで俺の顔も立った。上にはちゃんと報告しといてやったよ——『俺の管轄下で、迅速に処理させました』ってな」
そこに、レイナの名前はない。カナメの名前もない。血盟会の中間幹部であるクロダにとって、下請けの手柄は発注者である手前の手柄でしかない。そういうルールだ。
レイナはただ無表情で前を見据えていた。かつてなら即座にマチェットに手をかけていたような侮辱的な視線と言葉。だが今の彼女は、己の内に湧き上がる暗い暴力衝動を、一切表に出さずに押さえ込んでいた。殺気すら意図的に消している。
「——ありがたいお言葉です」
カナメは一切の感情を見せなかった。ただ平坦で、事務的な声色で答える。完璧に従順な「システム屋」としての態度のままだ。
「おう。で、だ」
クロダはソファから身を乗り出し、テーブルに端末を放り投げた。画面には、カナメが構築した資金洗浄システムのダッシュボードが表示されている。
「このシステム、便利だよなぁ。金の流れが一目でわかる。だからよ——ちょっと仕様を変えてくれ」
「仕様変更、ですか」
「俺の別口座への送金ルート、もう二本増やせ。あと、上への報告数字と実際の数字に差分が出るようにしろ。意味わかるだろ?」
上納金の中抜きだ。シノノメへの報告額を操作し、差額を自分の隠し口座に流す。組織に対する重篤な背任行為を、カナメのシステムを使って行えと言っている。
「悪いようにはしねぇよ。お前らみたいな下請けは、俺たち上の言うことだけ聞いて、言われた通りにキーボード叩いてりゃいいんだ。それが一番安全で、確実な生き残り方だろ?」
クロダはさらに続けた。
「来週、西地区の倉庫街でちょっとした揉め事がある。レイナちゃんだっけ? あの子にまた出てもらうわ。下請けの掃除屋としちゃ優秀だし、なにより見てて面白いからな。俺のシノギに貢献できることを誇りに思えよ」
面白い。クロダにとって、レイナの戦闘は「見世物」だった。血を流すのは末端で、手柄と利益を刈り取るのは自分。組織の威光を利用する計算高さを持つ、完璧な寄生虫の流儀だ。
レイナの内心で、どす黒い衝動が渦を巻いた。
無能な男に対する軽蔑。そしてカナメを道具扱いする態度への強烈な怒り。
だが、今のレイナはその衝動を微塵も表面に出さなかった。殺気すら一切漏らさず、ただ静かにクロダを見据えている。かつてのように感情に任せてマチェットに手をかけることはない。彼女は彼らのルールの中で「待つ」ことを学んでいる。
カナメは微動だにしない表情のまま、静かに頷いた。
「承知しました。仕様変更は本日中に。西地区の件も、詳細をいただければ対応します」
「おぉ、話が早ぇな。やっぱ頭のいい奴は違うわ」
クロダは満足げに笑い、バカラのグラスを掲げた。
「下がっていいぞ。あ、あとレイナちゃんによ、今度メシでも奢ってやるよ。焼肉とか好きだろ? ——犬だけに、な」
自分のジョークに、自分で笑った。
カナメは最後まで無表情のまま頭を下げ、背を向けた。レイナが続く。二人の足音が廊下に消えていく。
クロダはソファに深く沈み込み、葉巻にようやく火をつけた。紫煙を天井に吐き出しながら、端末のダッシュボードを満足げに眺め——
——画面が、赤く染まった。
『**WARNING ── CRITICAL ALERT**』
耳障りな電子音が室内に反響する。ダッシュボードの数字が高速で書き換わっていく。クロダの隠し口座——シノノメへの上納金から長年にわたって中抜きし、六つの偽名義に分散して蓄えた全資産。その残高が、リアルタイムで、削り取られていく。
七桁が六桁になり、六桁が五桁に崩れ落ちる。止まらない。凍結ではない。流出だ。資金が複数の匿名ウォレットを経由して霧散し、追跡不能な暗号回線の向こう側へと消えていく。
「な——なんだ、これ……おい、なんだよこれ!!」
バカラのグラスが床に落ちて砕けた。クロダは端末を掴み、画面を叩き、意味のない操作を繰り返す。紫煙をくゆらせていた葉巻が指の間で折れた。
「俺の金が——俺の金がッ! 止めろ! 誰か、おい、誰かシステムを——」
先ほどまで王の椅子に座っていた男の声が、裏返る。成金の仮面が剥がれ、その下から現れたのは、金を失った瞬間に何者でもなくなる——ただの寄生虫の素顔だった。
廊下を歩くカナメの背中には、その絶叫は届かない。
いや——聞こえていたとしても、歩調は変わらなかっただろう。
カナメの左手がポケットの中で、端末の電源ボタンを静かに押した。
仕込みは終わった。あとは、虫が自ら巣を食い破るのを待つだけだ。
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