10-1.泥水の日常と、静かな仕込み
飼い犬が牙を研ぐのは、飼い主の見ていないところだ。
そして最も危険な犬は、尻尾を振りながら喉笛を狙う。
血盟会の傘下に入って三週間が経った。
旧変電所の地下室には、毎日のように血盟会の人間が出入りするようになっていた。防爆扉の電子ロックには血盟会の認証コードが追加され、シャドウ・バンクの拠点は事実上、彼らの「出先オフィス」と化している。
今日も朝から二人組のヤクザが来ていた。革ジャンに安い整髪料の匂い。中間幹部・クロダの直属だと名乗るチンピラたちは、他人の拠点であるにもかかわらず、マウスの作業台に土足のまま足を投げ出して座り込んでいた。
「おい、PC屋。こいつのセキュリティ、朝までに抜けるようにしとけ」
ガツンと音を立てて、男がマウスのキーボードの横に放り投げたのは、違法カジノの端末だった。暗号化された決済システムのバックドアをこじ開けろという意味だ。精密機器のすぐそばで、わざと乱暴に扱う。マウスはビクッと体を震わせ、恐る恐る端末を受け取った。
「あ、あの……これ、暗号の階層がかなり複雑な五重になってて。朝までにはちょっと……物理的に時間が足りないかもしれないです」
「あ?」
ヤクザの一人が大袈裟に眉をひそめ、靴の裏でマウスの椅子を蹴り飛ばした。キャスターが滑り、マウスの細い体がドンッと机の角にぶつかる。
「いっ……」
「『ちょっと』何だよ、オタクのガキが。できねえとは言わせねえぞ。俺たちの仕事=クロダさんの仕事だ、わかってんだろ」
「つーかよ、お前らみたいな底辺のゴミが、俺たち血盟会に拾ってもらった恩を忘れてんじゃねえぞ。言われた通りに手ェ動かしてりゃいいんだよ」
マウスの肩が泥のように沈んだ。言い返す余地はない。血盟会の仕事は、断れない。断ればシノノメの名前が出てくる。その名前の重さを、この地下室の全員が骨の髄まで知っている。
「……わ、わかりました。なんとか、朝までに……」
「最初っからそう言えや。使えねえガキだな」
ヤクザはマウスの頭をぞんざいに小突くと、咥えていた煙草の灰を、あろうことか作業台の床にそのまま落とした。マウスは声も出せずにモニターに向き直った。画面の隅でリリのアバターが心配そうに瞬いている。
男たちの視線と標的が、カナメに移った。
「で? そっちの『元エリート』殿は、今日の帳簿の偽装終わってんのかァ? まさか上層の綺麗なお仕事に慣れてて、俺たちみたいな裏の仕事は遅いとか言わねーよな?」
カナメはキーボードから手を離さず、淡々と答えた。
「三十分前に終わっている。共有フォルダに上げ済みだ。確認してくれ」
「けっ、可愛げのねえ野郎だ。まあいい、どうせシノノメの若頭がいなきゃ、スラムの吹き溜まりで野垂れ死んでただけの能無しだからな」
「元・上層のおエラいさんが、今じゃ俺たちヤクザのパシリだぜ。笑えるよなァ」
下卑た笑い声が狭い地下室に響く。カナメは表情一つ変えない。「そうだな」とだけ返し、再びモニターへ視線を戻す。その徹底した無感情と従順さが、彼らがどんな屈辱的な言葉を投げかけようと『効いていない』ようで、ヤクザたちはさらに苛立ちを募らせた。
矛先は、部屋の奥に座るもう一人へと向けられた。
壁際の椅子に座っているレイナ。彼女は目を閉じていた。マチェットを膝に載せ、微動だにしない。上着の下から覗く人工生体スキンの鎖骨のライン、長い脚。外見は十代後半の少女そのものだ。義体の継ぎ目や金属フレームは衣服の下に隠れていて、知らない人間には見えない。
「——なァ、こっちの女さァ」
ヤクザの一人が、にやついた声をレイナに向け、わざとらしく靴音を鳴らして近づいた。
「どうせ毎日ここで座ってるだけだろ。おい、聞こえてんだろ。愛想笑いの一つくらいしろよ」
男が手元の吸い殻を、レイナの足元にポイと投げ捨てた。火のついた灰が床に散る。
「暇なら俺たちの相手でもしてくれよ。一発やらせてくれたら、クロダさんへの口利きくらいしてやっからさ。おい、無視してんじゃねえぞ」
もう一人が下卑た笑い声を上げた。
レイナは目を開けなかった。
指一本動かさなかった。カナメから「血盟会の人間には手を出すな」と命じられている。その命令だけが、レイナの全身を拘束している。
だが、変化はあった。
レイナの体から、何かが漏れた。殺意だ。形も音もない。だが部屋の空気の温度が、体感で二度ほど下がった。ヤクザの笑い声が、不自然に途切れた。にやついていた顔が、一瞬だけ引きつった。本能的に、自分たちが何かの境界線を踏んだことを察知している。
だがその恐怖は、二秒で消えた。ヤクザたちは互いに顔を見合わせ、気のせいだと結論づけて、もう一度笑った。弱い組織の女に凄まれた程度で怯む自分たちではない、と自尊心が上書きしたのだ。
「——感じ悪ィ女だな。まあいいけどよ」
男たちは興味を失い、作業台の横で煙草に火をつけた。旧変電所の地下室に、安い煙草の煙が漂った。
カナメは、作業台の端に座っていた。
ヤクザたちのやり取りを、視界の隅に入れていた。レイナへのセクハラも、マウスへの恫喝も、すべて見ていた。表情は動いていない。怒りも苛立ちも、その顔のどこにも存在しなかった。
カナメの前のモニターには、血盟会から押し付けられた資金洗浄ルートの保守画面が表示されている。違法カジノの売上を、複数のダミー口座を経由して洗浄するシステムの管理。下請けの雑務だ。ヤクザたちはカナメを「便利なPC屋」だと思っている。顎で使えるシステム屋。それ以上の認識はない。
カナメもまた、その認識を訂正するつもりはなかった。
この三週間、カナメは血盟会から押し付けられたすべての仕事を、一つの不満も漏らさず、完璧にこなし続けた。違法カジノのセキュリティ、資金洗浄ルートの構築、通信の暗号化。どれも期限通りに、求められた以上の品質で納品した。
そしてその全ての仕事の裏で、カナメは血盟会の金の流れを読んでいた。
資金洗浄のルートを保守するということは、その全経路が見えるということだ。どの口座にいくら流れ、どこで抜かれ、最終的にどこに着地するのか。カジノのセキュリティを管理するということは、その売上の全貌を把握できるということだ。三週間分の取引データが、マウスのサーバーに蓄積されている。
特に、クロダの管轄エリアの数字は詳細に追っていた。
クロダ。血盟会の中間幹部。シノノメの名前を盾に、傘下組織から上前をはね、自分の懐を肥やしている男。カナメたちへの当たりが最も強く、理不尽な納期と無茶な要求を日常的に押し付けてくる。部下たちがマウスを侮辱し、レイナにセクハラを働くのを黙認しているのもクロダだ。
カナメにとって、クロダは憎悪の対象ではない。素材だ。
ヤクザたちが帰ったのは、夕方近くだった。防爆扉が閉まり、安い煙草の残り香だけが地下室に漂っている。
マウスが椅子の上で崩れ落ちた。
「……も、もう無理だよ……毎日毎日、あいつらに『オタクのガキ』って……僕だってこんな仕事、好きでやってるわけじゃ……」
レイナは壁際から動かなかった。目だけが開いている。さっきまで閉じていた目の奥に、消化しきれない殺意が沈殿していた。
「カナメ。いつまで我慢すりゃいいんだ。あのクソどもの首、いつ刈っていい」
「まだだ」
カナメの声は、三週間前と同じ温度だった。
モニターに向かったまま、キーボードを叩いている。画面に表示されているのは、さっきまで保守していた資金洗浄ルートの構造図——ではなく、その裏側。カナメが独自に構築した解析レイヤーだ。クロダの管轄するカジノ三件分の資金フローが、時系列で可視化されている。
「三週間分のデータが揃った。クロダは血盟会への上納金を過少申告して、差額を自分の隠し口座に抜いている。額は小さいが、回数が多い。累計で相当な額になっている」
マウスが顔を上げた。レイナの目が、僅かに細くなった。
「クロダの裏帳簿の決済ルートに、細工を入れる」
カナメの声は、仕事の指示をするときの温度と同じだった。
「外部からの監査が入ったように見せかけるバグを一つ仕込む。クロダは自分の横領が露見しかけたと焦り、証拠の隠蔽に走る。そのときに俺たちが『処理を手伝う』形で介入し、クロダの不正の完全な証拠を押さえる。——あとは簡単だ。その証拠をちらつかせれば、クロダは俺たちの言うことを聞くしかなくなる」
血盟会の中間幹部を、裏から操る傀儡にする。最初の一手だ。
「ク、クロダを脅すってことですか……で、でもバレたら——」
「バレない。クロダ自身が、バレることを一番恐れている。横領の事実がシノノメの耳に入れば、クロダは消される。俺たちに従うほうが、クロダにとってはまだ安全だ。——合理的な選択肢を与えるだけでいい」
マウスは黙った。カナメの言っていることの意味を、ゆっくりと咀嚼している。
レイナが壁から背を離し、立ち上がった。マチェットの柄に左手をかけ、義体の指でゆっくりと鞘の中の刃の感触を確かめている。
「……やっと、仕事になりそうだな」
低い声だった。三週間分の殺意が、ようやく向かう先を見つけた声だった。
モニターの光が、カナメの横顔を照らしている。そこに怒りはない。屈辱もない。あるのは、罠を設計する者の、冷たい精度だけだった。
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