9-4.寄生虫の設計図
巨人を殺すのに、巨人である必要はない。
血管の中に入れる大きさであれば、それで十分だ。
カナメがモニターに表示させたのは、南ブロックのインフラ地図ではなかった。
スラム全域の勢力図だ。
色分けされたブロックが、旧変電所の壁面モニターに広がっている。赤、灰、黄、緑——それぞれが異なる組織の勢力圏を示していた。マウスがバケツの横から椅子に戻り、キネのホログラムが作業台の上で腕を組んでいる。レイナは壁際に座ったまま、カナメの背中を見ている。
「現状を確認する」
カナメの声は、講義のように平坦だった。
「スラムの経済と暴力を支配しているのは、血盟会だ」
モニター上で、赤い領域がスラムの中央部から南部にかけて広がっている。面積にして全体の四割以上。他のどの色よりも圧倒的に大きい。
「構成員は推定で三千人規模。武器、薬物、物流、賭博——スラムの主要なシノギのほとんどに血盟会の手が入っている。トップはシノノメではなく、会長のイノマタという人物だが、実質的な最高戦力と実行権限はシノノメが握っている」
指が、画面の北端を示した。灰色の領域。
「北部の旧軍事施設一帯を占拠しているのが鉄蜘蛛。自律兵器と重武装の傭兵崩れで構成された、制御不能の武装集団だ。頭目のガルドという化け物が統率しているが、組織としての秩序は血盟会より遥かに低い。ただし火力だけは異常で、血盟会すら正面衝突を避けている」
そして、カナメの指がモニターの南端——ほとんど見えないほど小さな青い点に触れた。
「これが俺たちだ。シャドウ・バンク。南ブロックの一角に張り付いた、従業員三人の零細企業。そして今日から、血盟会に完全に飲み込まれた下部組織」
マウスが、その青い点を見て唇を噛んだ。キネのホログラムは無表情だが、皺の奥の目が険しい。
「客観的に見れば、絶望的だ。異論はないだろう」
異論を唱える者はいなかった。モニターに映る勢力図が、現実をそのまま表示している。赤い海の中の、青い塵。それが今の自分たちだ。
「だが」
カナメの声の温度は変わらなかった。
「シノノメの武力は、今日お前たちも体感した通りだ。個としての戦闘力は、スラムでも最上位の化け物だろう。正面からぶつかって勝てる人間は、おそらくこのスラムには存在しない」
レイナの義体が、僅かに軋んだ。壁を殴って裂けた人工生体スキンの隙間から、金属フレームが覗いている。
「だが、シノノメも血盟会という組織に属する一人の人間だ。そして巨大な組織には、必ず構造的な弱点がある」
カナメがモニターの赤い領域を指で二つに割った。表示が切り替わり、血盟会の内部構造——推定の組織図が浮かび上がった。マウスがこれまでに収集した断片的な情報を繋ぎ合わせた、不完全だが輪郭の見える図だ。
「血盟会の会長・イノマタは古い世代の極道だ。対してシノノメは若頭として急速に実権を握りつつある。この構図で内部に軋轢がないはずがない。シノノメの台頭を快く思わない古参幹部、権限を削られた中間管理層、外部にも反シノノメの勢力がいるはずだ」
キネが口を開いた。
「……あたしの耳にも、いくつか入ってきてるよ。血盟会の古参で、シノノメのやり方に不満を持ってる連中の名前がね。だが、それがどうした。派閥争いがあったとしても、あたしらにできることは——」
「できる。むしろ、今日からできるようになった」
カナメはキネの言葉を遮った。
「俺たちは今日、血盟会の傘下に組み込まれた。つまり、連中の体内に入ったということだ。下請けとしてシノギの裏方を任される以上、血盟会の金の流れ、物資のルート、人員の配置——表に出ない情報が、仕事を通じて直接こちらに流れ込んでくる」
マウスの目が、僅かに動いた。ハッカーとしての本能が、カナメの言葉の先にあるものを嗅ぎ取り始めている。
「連中は俺たちを便利な下請けだと思っている。システム屋の小僧が、言われた通りにインフラを整備して、汚れ仕事の裏方をやる。その認識でいる限り、警戒はされない。——警戒されない位置から、何ができると思う」
マウスが答えた。声はまだ震えていたが、指はキーボードの上に戻っていた。
「……ぼ、僕が血盟会のシステムに触れるなら……通信の暗号鍵の構造も、資金の決済経路も、全部見える。見えるだけじゃなく……書き換えられる」
「そうだ」
カナメの声に、初めてわずかな硬度が混じった。刃の切っ先が光を弾くような、冷たい鋭さ。
「血盟会の威光を盾にして、俺たちのシステムをスラム全土に広げる。連中の仕事を請けるたびに、彼らのインフラに俺たちの回路を一本ずつ差し込んでいく。反シノノメ派の情報を集め、派閥の亀裂を把握し、使えるタイミングまで温める」
カナメはモニターの赤い領域に、青い線を一本引いた。血盟会の組織図の内部を、細い青が貫通している。
「正面から潰すんじゃない。組織図を裏から書き換えて、実権だけを吸い上げる。連中が気づいたときには、血盟会の血管の中を流れているのは俺たちのシステムだ。——首を挿げ替えるのは、その後でいい」
キネが沈黙した。マウスも黙った。二人とも、カナメが描いている図面の規模を理解しようとしている。スラム最大の組織を、内側から食い破る。それは半グレの縄張り争いではない。巨大な生き物に寄生して、宿主の神経系を乗っ取る寄生虫の設計図だ。
もちろん、他人のシステムの中枢に入り込み、実権を握るのが容易でないことはカナメ自身が誰よりも理解している。今後、血盟会の中で彼ら自身が影響力を獲得し、システム的な依存度を高めさせていくことが大前提となる。
だが、カナメにとっては計算の範疇だった。この男はスラムに落ちる前、都市の管理を司るメガコーポ『オルビット』で、AI統括官というシステムと政治の結節点にまで登り詰めた人間だ。スラムの暴力団の組織設計や社内政治の手綱を握り、派閥を誘導することくらい、あのメガコーポでの権力闘争に比べれば見慣れた図式である。
(——それでも、ノイマンのような本物の政治のバケモノに比べれば甘い。自分の感情に振り回されて追い落とされたのが俺だ)
カナメは内心で自嘲の響きを一つだけ鳴らし、すぐに思考からノイズを切り捨てた。
「……坊や」キネのホログラムが、低い声で言った。「あんた、本当にイカれてるよ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
カナメの唇の端が、数ミリだけ持ち上がった。笑みと呼ぶには薄すぎる。だがそこには、計算の帰結として導き出された、冷たい確信があった。
「最後に笑うのは俺たちだ。——時間はかかる。だが、必ずそうなる」
壁際で、レイナが立ち上がった。
音はなかった。義体の左腕を一度握り、開き、もう一度握る。裂けた人工生体スキンの下で金属フレームが軋んだ。それからマチェットの柄に手をかけ、鞘の中で刃の位置を確かめるように、僅かに引いて戻した。
レイナの目にはもう、敗北の色はなかった。
シノノメの前で動けなかった自分。あの屈辱は消えていない。だがカナメが新しい盤面を描いた以上、レイナの仕事は決まっている。その盤面の上で、カナメが指差したものを壊す。それだけだ。それだけでいい。
義体のサーボが、低く唸った。次に動くときは、止まらない。
旧変電所の蛍光灯の下で、モニターに映る青い線が、赤い地図の中を静かに伸びていた。
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