9-3.壊れた盾と、冷たい肯定
犬が自分の脚を噛むのは、敵に噛みつけなかった夜だけだ。
防爆扉のロックが三重に噛み合う電子音が鳴り終わったとき、最初に崩れたのはマウスだった。
椅子から転がり落ちるように床に膝をつき、作業台の下に置いてあったバケツに顔を突っ込んだ。胃液の混じった嘔吐音が、地下室に反響した。体が痙攣するように跳ね、吐き切った後も顔を上げられずに、バケツの縁を掴んだまま肩で息をしている。
レイナは、まだ立っていた。
マチェットを握った姿勢のまま、動かない。シノノメが消えた防爆扉を睨んでいる。義体の左腕が小刻みに震えている。NAS-07の神経加速が、ようやく待機状態から解除された。だがその解放が、レイナの中で別の何かの蓋を開けた。
最初の一撃は、壁だった。
レイナの左腕が、旧変電所のコンクリート壁に叩きつけられた。義体の拳がコンクリートにめり込み、亀裂が放射状に走った。粉塵が舞い、破片が床に散る。
二撃目。同じ場所。拳が食い込み、壁の内部の鉄筋が露出した。
三撃目。義体のサーボが悲鳴じみた駆動音を上げた。関節部の人工生体スキンが裂け、その下の金属フレームが剥き出しになった。
「——クソ、クソッ……!」
レイナの声は怒号ではなかった。喉の底から搾り出された、自分自身への罵倒だった。
「なんで動けなかった——なんで、アタシは——」
四撃目。壁に深い穴が開き、配管の一部が露出した。レイナの拳の表面——人工生体スキンが裂けた箇所から、義体のフレームに付着した自分の血が滲んでいる。有機組織と機械の接合面から漏れた血だ。義体には痛覚がないが、接合部の生身の組織は悲鳴を上げている。
レイナにとって、自分の存在意義は一つしかない。カナメを守る暴力であること。それだけが、自分がここにいていい理由だ。なのにシノノメの前では、その暴力が一切機能しなかった。マチェットを握っていた。神経加速も起動できた。それでも一歩も踏み出せなかった。
守れなかった。何もできなかった。ただ立っていただけだ。
五撃目を振りかぶった左腕が、途中で止まった。
カナメの手だった。
レイナの手首——義体と生身の境界にあたる接合部を、カナメの右手が掴んでいた。力任せではない。だが外す気のない、正確な位置を押さえた握りだった。
レイナの目が、カナメを見た。汗と粉塵と血で汚れた顔。瞳孔が開いたままの目の中に、行き場のない暴力と、自分自身を壊したいという衝動が渦巻いている。
「——離せよ、カナメ。アタシは——アタシは、アンタの前で指一本動かせなかったんだぞ。あいつが、あいつがアンタを殺そうとしたら、アタシは——」
「あの状況では、俺が武器を扱えなかった」
カナメの声は平坦だった。感情がないのではない。自らの失策を正確に分析する、冷ややかな声だ。
「お前が動かなかったのは、怯えたからじゃない。あの場で踏み込めば、お前が斬る前にシノノメが俺を殺す。それを本能で弾き出した。だから動かなかった」
レイナの肩が震えた。カナメは手首を掴んだまま続けた。
「所有者が無警戒であの化け物を拠点に入れてしまった以上、武器に責任はない。対処できなかったのは俺の失態だ」
「アタシは何もしてねェだろうが……っ。アンタの武器なら、アンタを守れなきゃ……」
「お前が闇雲に暴発しなかったおかげで、俺たちは全滅を免れた。今日、お前は武器として正しく機能した。俺が生きているのがその証拠だ」
カナメの目はレイナを真っ直ぐに見ていた。同情はない。ただ、武器とその持ち主の責任の所在を、淡々と切り分けている。
レイナの震えが、変質した。
怒りの震えが止まり、別の種類の振動に置き換わっていく。武器に責任はない。そう言い切るカナメの言葉が、レイナの中の回路に嵌まった。
それがカナメなりの不器用な慰めでしかないことを、レイナは理解している。自分が圧倒的な暴力の前に無力だったという事実は、一ミリも消えてはいない。
だが、その底冷えするような論理の肯定が、今のレイナにとってはどんな優しい言葉よりも深く沁み込んだ。
同時に、腹の底で黒い炎がくすぶる。
このままでは駄目だ。本能が「動くな」と命じるような相手がまだいるのなら、武器としての性能をさらに引き上げなければならない。次にあの猛獣と対峙したとき、カナメの完璧な武器として、躊躇なくその首を刎ねられるように。
己の力のなさへの嘆きと、カナメの言葉への歪な感謝。そして、さらなる手腕の研鑽への確かな決意。
レイナの呼吸が変わった。荒い呼吸が、ゆっくりと深くなっていく。振り上げていた左腕の力が抜け、義体の指がだらりと垂れた。代わりに右手——生身の手が、カナメの上着の裾を強く握りしめた。
「……アタシは、アンタの武器で……いいんだな」
「それ以外の何かを求めた覚えはない」
「……ッ」
レイナの額が、カナメの胸に押し当てられた。すがりつくようにではなく、自身の無力さに耐えるように。泣いてはいない。レイナの目は固く閉じられ、口元には自虐的な笑みだけが浮かんでいる。
カナメの冷たい承認は、決して現状の肯定ではない。未熟な現状を踏まえてなお、自分は「武器」として求められている。その事実だけが、レイナの中で次へ進むための冷たい炎となって静かに燃え続けていた。
カナメはレイナの頭に手を置かなかった。背中も撫でなかった。ただ上着の裾を掴まれたまま、数秒だけ立っていた。それから、静かに手を離した。
「——マウス。立て」
声が切り替わった。レイナに向けていた温度ではない。業務の温度だ。
マウスはバケツの横で、まだ青い顔をしていた。だがカナメの声に反応して、震える手でモニターの縁を掴み、椅子に這い上がった。
「キネを繋げ。ホログラムでいい」
「は……はい……」
マウスの指が、まだ震えながらキーを叩いた。数秒後、作業台の上に小さなホログラム映像が浮かんだ。キネの皺だらけの顔が、不機嫌そうにこちらを見ている。
「——夜中に何だい。碌な話じゃないんだろう」
「碌な話ではないです。血盟会の傘下に入ることになりました」
キネの目が細くなった。マウスが小さく呻いた。
「……やっぱりな。シノノメが動いたって噂は聞いてたよ。で、あんたたちはこれから血盟会の財布と鉄砲玉をやらされるわけかい」
「ぼ、僕もそう思います……結局、いいように使い潰されるだけじゃ……」
二人の声には、諦めに近い重さがあった。
カナメは答えなかった。モニターに映る南ブロックのインフラ地図を見ていた。自分が構築したシステムの上に、今日から被さった血盟会という巨大な影。
「南ブロックのインフラをこれほど早く掌握すれば、血盟会に目をつけられるのは遅かれ早かれ避けられない未来だった。拠点の武装強化やシステムの堅牢化、レイナの性能向上を間に合わせる計算だったが、彼らの『目』の速度を甘く見ていた。あの化け物を敷地に入れてしまったのは俺の責任だ」
血盟会の傘下として首輪をつけられた事実は、確かに痛手である。その損失と重さを、カナメ自身が誰よりも正確に測っていた。
「……だが」
カナメの声の温度が一段下がった。絶望の色は全くない。冷徹な算盤の音だった。
「現状を嘆くのは簡単だ。だが、配られたカードを嘆くのではなく、今ある手札でどう勝つかを考えるだけだ。……逆転の発想だ」
「逆転って……首輪をつけられた状態でどうしろってんだい」キネが呆れたように言った。
「首輪をつけられたということは、血盟会の内部へ合法的にもぐり込み、彼らの血管に直接パイプを繋ぐ権利を得たということだ」
マウスとキネが黙った。
「彼らの傘下に入れば、血盟会が表に出せない情報——金の流れや物流ルート、人員の配置が、仕事を通じて否応なくこちらに流れてくる。使い潰されるのは、向こうがこちらの価値を見誤っている場合だけだ」
カナメの目は冷たく澄んでいた。巨大な暴力に蹂躙されてから、一時間も経っていない。だがその頭の中では、すでに首輪の鎖を辿った先にある反逆の回路が描かれ始めている。
「相手が俺たちを『都合のいい財布と鉄砲玉』だと見下しているうちに、そのシステムの中に深く寄生し、気づかれないように脳髄をすげ替える」
蛍光灯の光が、カナメの青白い横顔を照らしていた。
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