9-2.首輪の値段と、猛獣の背中
首輪をつけられた犬が生き延びる方法は二つある。
噛みつくか、首輪ごと相手を飲み込むか。
蛍光灯が明滅した。
その一瞬の暗闘の中で、カナメの計算が一つの結論に着地した。短期の生存確率、中期の損失許容範囲、長期の回収見込み。すべてのパラメータが、一つの選択肢を指している。
「——傘下に入る件、承知しました」
カナメの声は平坦だった。蛍光灯が復帰し、薄い光が地下室を満たし直す。マウスが小さく息を呑む音がした。レイナの義体の関節が、一段強く軋んだ。
シノノメは表情を変えなかった。予想通りの答えだったのだろう。穏やかな笑みのまま、軽く顎を引いた。
「賢明ですね」
「ただし」
カナメの声に、温度の変化はなかった。承諾の言葉と同じ平坦さで、同じ呼吸の流れの中で、続けた。
「保険はかけさせてもらいます」
シノノメの指が、スーツの膝の上で僅かに止まった。笑みは消えていない。だが、その奥にある注意の密度が一段上がったことを、カナメは感じ取った。
「現在、南ブロックのインフラ——電力グリッド、物流動線、通信の暗号レイヤー——はすべて僕のシステムを経由して稼働しています。このシステムには、管理者である僕の生体認証が定期的に入力されなかった場合に起動する、フェイルセーフが組み込んであります」
カナメは事実を並べるだけの声で続けた。脅迫の色はない。プレゼンテーションの温度だ。
「フェイルセーフが作動した場合、南ブロックの物流網は制御不能のエラーを起こします。電力供給は不規則に遮断と過負荷を繰り返し、通信の暗号鍵は総入れ替えされ、既存の接続はすべて切断される。これは僕が死んだ場合、あるいはシステムが物理的に強奪された場合に自動で発動します」
シノノメは黙って聞いていた。
「南ブロックのインフラが混乱すれば、この区画を経由している血盟会の既存の利益——物流ルート、取引先との通信、各種のシノギの決済経路——にも相応の損害が出ます。僕の試算では、復旧に最低でも数週間、損失額は血盟会の南部収益の二割から三割程度」
カナメは一拍、間を置いた。
「僕を殺すこと自体は簡単です。ですが、その後始末のコストは安くない。——これはビジネス上のリスク要因としてお伝えしておくべきだと思いまして」
地下室に沈黙が落ちた。
レイナはマチェットを握ったまま、カナメの背中を見ていた。今カナメがやっていることの意味は理解できる。殺されないための交渉だ。だがその声に恐怖がない。命を盾にしているのに、まるで経費の説明をしているような温度で喋っている。
シノノメの沈黙は、五秒ほど続いた。
それから、笑った。
声を出して笑ったのではない。口元の形が、ほんの僅かに変わった。穏やかな笑みの中に、別の色が混じった。面白がっている。値踏みの精度が、一段上がった。
「——ええ、良いでしょう」
シノノメの声は変わらず穏やかだった。
「優秀な商人のようだ。自分の商品に保証書をつけるのは当然のことですね。殺したら壊れる道具より、生かして使える道具のほうが値打ちがある。理に適っている」
シノノメはスーツのポケットから新しい煙草を取り出し、火をつけた。最初の一服を深く吸い、天井に向けて煙を吐く。その仕草に、交渉の緊張を解く意図があるのか、あるいは単に煙草が吸いたかっただけなのか、カナメには判別できなかった。
「ではカナメくん、改めて条件を確認しましょうか」
シノノメの声が、穏やかなまま事務的な輪郭を帯びた。
「一つ。シャドウ・バンクは血盟会の傘下組織として機能する。ただし、血盟会の名前は表に出さない。あなた方は独立した組織として振る舞い、南ブロックのインフラ整備と物流の最適化を継続する」
「はい」
「二つ。血盟会が指定する案件について、システム上の支援を行う。通信の遮断、情報の攪乱、物流ルートの提供。我々が表立ってやりにくい仕事の、裏側の配管工事です」
「承知しました」
「三つ」
シノノメの目が、カナメを正面から捉えた。穏やかさは消えていない。だが、その穏やかさの奥に、交渉の余地のない硬度が見えた。
「我々の財布を豊かにしなさい。それがあなた方の存在意義です。数字で結果を出してもらう。期待していますよ」
最後の一言は、激励ではなかった。債務の確認だった。お前たちは今日から血盟会に借りがある。その借りは、利益で返せ。返せなければ——その先の言葉は、言う必要がなかった。
「……了解しました」
カナメの声は、最初から最後まで同じ温度だった。
契約は成立した。見えない首輪が、シャドウ・バンクの全員の首に掛けられた。
シノノメはソファからゆっくりと立ち上がった。
その動作に、隙はなかった。腰を上げ、足を揃え、スーツの前を片手で正す。一連の動きのどの瞬間にも、レイナが踏み込める間合いは存在しなかった。座っていた時と同じだ。立ち上がる途中も、立ち上がった後も、シノノメの全身が発する圧は一瞬たりとも弛緩しない。
レイナの歯が、奥歯の根元で鳴った。義体の左手がマチェットの柄を握り潰しそうなほど締めている。目の前を通り過ぎていく背中に、すべての殺意を叩きつけたい。だが足が動かない。シノノメが一歩進むたびに、レイナの全身の神経が同じ結論を返し続けている。——隙がない。どこにもない。
シノノメはマウスを見なかった。レイナも見なかった。防爆扉の前で一度だけ足を止め、肩越しにカナメの方を向いた。
「——良い仕事を期待しています、カナメくん」
軽い会釈だった。社交的で、穏やかで、完璧に礼儀正しい。そしてその礼儀正しさが、この場にいる全員の首に刃を当てているのと同じ意味を持っていた。
シノノメは防爆扉の向こうへ消えた。足音はなかった。煙草の残り香だけが、地下室の空気に薄く漂っている。
防爆扉が、自動で閉まった。ロックが三重に再起動する電子音が、静かに鳴った。マウスのシステムが正常に復帰している。リリのアバターがモニターに戻り、遅ればせながら「異常なし」と表示した。すべてが元に戻った。シノノメが来る前と同じ状態に。
だが、何も同じではなかった。
レイナのマチェットが、ゆっくりと下がった。義体の指が柄から離れたとき、掌の形に金属がへこんでいた。
「……クソが」
レイナの声は低く、乾いていた。誰に向けたのかわからない。シノノメに対してか、動けなかった自分に対してか。
マウスはモニターの前で、まだ震えていた。
カナメは、立っていた。シノノメが座っていたソファを見ている。革の座面に、僅かに体温の残像がある。煙草の灰が一つ、肘掛けの横に落ちていた。
カナメの表情は動かなかった。だが頭の中では、すでに次の計算が回り始めている。首輪の重さを測り、鎖の長さを確かめ、その範囲の中で最大の利益を引き出す方法を。
負けたのではない。生き延びたのだ。
生き延びた人間にだけ、次の手を打つ権利がある。
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