3-3.盤上のノイズ
──完璧な計算式には、一つだけ致命的な欠陥がある。世界が計算通りに動くと信じていることだ。
端末の画面では、ヤマモトの低解像度の映像がせせら笑いを浮かべたままこちらを見下ろしている。
直後、荷台の出入口を覆う装甲パネルが、内側から完全に封鎖された。金属の軋む音とともにロック機構が作動し、カナメを狭い空間に閉じ込める。
同時に、コンテナの床面の通気口から、甘い化学臭が漂い始めた。
『証拠隠滅プロトコル進行中。内部の有機物を完全にパージします』
圧縮シアン化合物だ。荷台は気密構造であり、三十秒もすれば致死濃度に達する。カナメの指が端末を走り、ロック機構の制御コードへの侵入を試みた。だがファイアウォールは七層。軍用規格の堅牢な防御壁は、カナメの端末の演算リソースでは解除に最低でも九十秒を要す。致命傷になるまでに三十秒。
計算が、合わない。
カナメが自分自身で設計した、メガコーポの「完璧なセキュリティと証拠隠滅ルーティン」が、今度はその喉首を絞め上げていた。物理的に詰んでいた。
荷台の空気が急速に重くなる。甘い死の匂いが鼻腔の粘膜を刺激し始めた。カナメは呼吸を浅くし、残された秒数を数えた。二十二。二十一。二十——
轟音が響いた。
荷台の左側面——厚さ四センチの特殊装甲隔壁が、内側から殴られたように膨らんだ。
二度目の衝撃。装甲板の溶接部にひびが入った。
三度目。マチェットの刃先が、隔壁を貫通して内側に突き出した。
四度目の衝撃で、隔壁が激しい金属音と共に裂けた。引き裂かれた装甲の隙間から、血まみれの腕が突き込まれてきた。左腕——義体の腕だ。サーボモーターが許容値を遥かに超えた出力で駆動し、関節部から白煙と冷却液を吹き上げている。その奥で、狂気に満ちた赤い光学センサーが明滅していた。
レイナだった。
先ほどまで荷台の外で倒れていたはずの女が、壊れた義体と壊れかけの生身を総動員して、特殊装甲の隔壁を物理的に破砕していた。マチェットの刃は既に半ばで折れている。折れた刃の代わりに、義体の拳そのものが隔壁に叩きつけられていた。装甲を殴るたびに義体の指が一本ずつ砕け、人工関節の破片が火花とともに散った。
「あたしが——」
レイナの声が、裂けた隔壁の向こうから聞こえた。血と冷却液が混じった液体が口から溢れ、それでも言葉は止まらない。
「——道を作ってやるよ」
笑っていた。義体の左腕が肘の関節から完全に外れかけているのに、肩のブースターだけで装甲を殴り続けている。生身の右手も加わった。素手で特殊装甲を叩く。皮膚が裂け、骨が軋み、血が鉄壁に塗りたくられる。それでも彼女は微塵も止まらない。
カナメの脱出経路が「無い」と直感した瞬間から、この女はシステムや限界といったものをすべてガン無視して立ち上がっていたのだ。完璧な防衛計算式の外側で。
隔壁が崩れた。人一人が通れる穴が、血と機械油と煙の中に開いた。外気が流れ込み、シアン化合物の濃度が急速に低下する。
端末の画面で、ヤマモトの顔が引き攣っていた。
「……何だ、それは。非合理だ、あの個体の損傷率は……行動継続が不可能なはずだ! なぜ動いている!?」
計算外の事態を前にした、純粋な驚愕と恐慌。
カナメはデータ端末からもっとも重要度の高い「生体実験ログとドナーデータ」が入った記憶ドライブを物理的に引き抜き、拳大の記録媒体をポケットにねじ込んだ。
「計算式に甘えるから、足元をすくわれる」
カナメは冷徹に言い放ち、端末の接続を自ら切断した。ヤマモトの狼狽する顔がノイズの中に消える。
裂けた隔壁を潜り抜けると、レイナが荷台の外壁にもたれて座り込んでいた。義体の左腕は肘から先が存在しない。肩のブースターが焼き切れ、黒煙を上げている。生身の右手は拳の皮膚が完全に剥がれ、白い骨が露出していた。
「……データ、取れた?」
「ああ」
「じゃあ、あたしの、勝ちだね」
カナメはレイナの身体を担ぎ上げた。背中に回した腕が、女の異常な軽さを感じ取る。
高架の下を走った。背後でトラックの自爆シーケンスが最終段階に入る。カナメは足を止めず、高架の排水路に飛び込んだ。
三秒後、トラックが爆発し、強烈な閃光が闇を裂いた。
衝撃波が排水路の汚水を叩き、熱風がカナメの背中を焼いた。直撃は免れた。レイナが開けた穴がなければ、あの荷台の中で二人とも灰になっていた。
カナメは汚水の中で息を整えながら、ポケットの中の記憶媒体の重みを感じた。かつて自分を追放した企業への、最初の痛撃。反逆の牙が、確かに根を下ろした瞬間だった。
***
上層セクター。オルビット・ネットワークス本社ビル、第七十二階層。
無菌室のように空調が管理された執務室で、ノイマンはタブレット端末の報告書に目を通していた。
「……中層セクターD-7での輸送トラック襲撃。私の手で直接証拠隠滅プロトコルを起動しましたが、積荷の『区画C関連データの一部』が強奪されました」
忌々しげに報告を行っているのは部下のヤマモトだった。ノイマンは眉一つ動かさず、滑らかなガラスの表面を指でなぞる。
「……襲撃犯の身元は」
「間違いありません。半年前、下層へ追放されたカナメ・スオウです。プロトコル起動時の通信に介入してきた顔を、この目で確認しました。まさかあのスラムの底で泥水をすすって生き延びていたとは」
「カナメが……?」
その言葉に、ノイマンの指がピタリと止まった。
灰色の目が、わずかに見開かれる。静まり返った執務室に、AIサーバーの微かな駆動音だけが響いた。
「ヤツはどうやら下層の無法者に成り下がり、我々の機密を漁ろうとしたようです。追跡・抹殺部隊を編成しますか?」
数秒の沈黙。ノイマンの脳内で高速の演算が走る。
やがて彼はふっと息を吐き、いつもの抑揚のない、冷え切った薄ら笑いを浮かべた。
「いや、不要だ。放っておきたまえ」
「……よろしいので?」
「半年生き延びたところで、所詮はスラムのゴミを漁る野良犬だ。今回はこちらの自動防衛の隙をたまたま突いただけのマイナーエラーに過ぎない。設備の整った上層の防壁を前に、いつまでも運が続くわけがない。次の冬を越せずに死ぬだろう」
ノイマンは報告書のウィンドウを軽くスワイプし、ゴミ箱のアイコンへと放り込んだ。
「次の輸送はルートBに変更。護衛のドローンを二機増やせ。それだけでいい。計算式に合わない微細なノイズなど、すぐにゼロに収束する」
それは、数字だけを盲信する冷徹な知性による、完璧な見落としだった。
自分たちが棄却した「エラー」が、やがて企業の根幹を喰い破る最悪のバグとなって這い上がってくることなど、今のノイマンには知る由もなかった。
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