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『ノイズ・イン・ザ・システム〜「あたしを見捨てなかった神様へ」と笑う狂犬を連れて、元企業エリートはどん底から世界を壊す〜』  作者: はーまやー


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4-1.鉄の冷たさと体温

──首輪はない。どこにも属さない。ただ、並んで飯を食う。

 酸性雨がトタン屋根を叩く音で目が覚めた。


 カナメは薄暗い天井を見上げた。天井といっても、廃棄コンテナの内壁を断熱シートで覆っただけのものだ。シートの継ぎ目から結露が滴り、床に敷いた防水布の上に小さな水溜まりを作っている。外気温は摂氏九度。コンテナ内部は、二人分の体温と旧式ヒーターの微熱でかろうじて十四度を保っていた。


 半年前、泥水の中で拾った最初のコンテナから三度移転し、今の隠れ家はスラム南端の廃棄物集積場の奥にある。二つのコンテナを溶接で連結し、一方を居住区、もう一方を作業場兼武器庫にした。壁には防音材の代わりに古い衣類が詰め込まれ、入口は二重のロック機構で封鎖されている。贅沢とは程遠いが、下層の基準では上等な部類に入る住処だった。


 左腕に重みを感じた。


 レイナが寝ていた。カナメの左腕を抱き込むようにして、狭いマットレスの上に丸まっている。寝息は浅く不規則で、時折、義体の右脚のサーボモーターが微かに痙攣するように震えた。夢の中でも戦闘しているのか、あるいは限界を超えて駆動させた義体の幻痛が神経を刺激しているのか。


 服を着ていなかった。正確には、下着だけだった。黒い、何度も洗って色褪せたスポーツブラと、同じく擦り切れたショーツ。それだけの布地の間から、レイナの身体の「境界線」と「戦歴」が剥き出しになっている。


 無駄な脂肪の一切ない、しなやかに鍛え上げられた獣のような肢体だ。だが男勝りの筋肉質というわけではなく、スポーツブラ越しでも主張する豊かな双丘や、引き締まった腰から伸びるすらりとした脚線には、程よく肉付きの良い女性的な魅力がある。その滑らかな褐色の肌には無数の傷跡があった。昨今の依頼で刻まれた浅い切り傷や、右腹部には、半年前カナメと初めて出会ったときの重度の火傷痕。命のやり取りで研ぎ澄まされた刃のような鋭さと、無防備な女の肢体が奇妙に同居している。


 そして最大の特徴は、左腕と右脚だ。肩の付け根、そして右膝から先がジャンクの義体に置換されている。生身の太腿や肩甲骨から唐突に繋がる金属フレーム。接合部には無骨な溶接痕が走り、皮膚は常に赤く炎症を起こしていた。


 カナメは左腕を引き抜こうとした。レイナの指が締まった。


「……んー。動くな」


 目を閉じたまま、レイナが呟いた。カナメの腕を胸元に引き寄せ、頬を押しつける。義体の左腕ではなく、生身の右手で。その指先の温度がカナメの前腕に伝わった。


「起きろ。義体の点検をする」


「やだ。あと五分」


「昨夜の戦闘で左肩のブースターが焼き切れている。放置すれば接合部から感染する」


「……アンタが治してくんなら起きてやる」


 レイナは片目を開けた。右目。虹彩の焦げ茶色が、薄暗いコンテナの中でカナメを見上げている。左目の光学センサーは昨夜の戦闘で割れたままで、赤い受光部が消灯していた。片目だけの視線。それが、妙に近い距離から、妙に甘い角度で向けられている。


「つーかさ、アンタの腕あったかい。ヒーターより全然いい」


「……俺は暖房器具ではない」


 半ば呆れ気味に、カナメは短く息を吐いた。半年前の氷のような冷徹さとは違い、そこには手のかかる犬を窘めるような小さな体温があった。


「知ってる。暖房器具はあたしに命令してくんないもん」


 カナメはため息をつき、強引に腕を引き抜いて起き上がった。レイナが不満そうに唸ったが、「点検」という言葉には逆らわない。それがカナメの指示である限り。


 作業場から工具箱を持ってきた。精密ドライバー、冷却液のカートリッジ、絶縁テープ、接点復活剤。すべて闇市場で調達した、規格の揃わない寄せ集めだ。


「座れ。左肩を出せ」


 レイナはマットレスの縁に腰を下ろし、スポーツブラの左側のストラップを肩から外した。義体の左腕と生身の上半身の接合部が完全に露出する。肩甲骨の横から鎖骨の下にかけて、金属のフレームが皮膚に食い込むように埋まっていた。接合部の周囲は昨夜の限界駆動オーバーロードの影響で赤黒く腫れ、冷却液の滲みた跡が乾いてこびりついている。


 カナメは接点復活剤を布に含ませ、接合部の汚れを拭き取った。金属と肌の境目に指が触れる。冷たい鉄と、熱を持った皮膚。その温度差が、指先を通じて脳に届いた。


 レイナの肩が、微かに震えた。


「……ん」


「痛むか」


「逆。気持ちいい」


 カナメは無言で作業を続けた。精密ドライバーで肩部フレームのボルトを締め直し、緩んだ神経連動プラグを差し直す。プラグを抜いた瞬間、レイナの義体の指が一斉に開き、差し込んだ瞬間に握り拳を作った。神経接続が正常に復帰した証拠だ。


「プラグの熱を抜く。少し冷たいぞ」


 冷却ジェルをプラグの根元に塗布した。レイナが小さく息を吸った。冷たいジェルが義体と生身の境界を流れ、鎖骨の窪みに溜まる。レイナの生身の肌に鳥肌が立った。


「アンタの指、冷てぇ」


「素手で作業している。当然だ」


「もっと触ってていいよ。好きなだけ直して。あたしはアンタのモンなんだから、隅々まで手入れしてくんないと」


 カナメの指が一瞬止まった。レイナの鎖骨の上に、冷却ジェルの雫が留まっている。その雫の横に、昨夜の被弾で生じた擦過傷の赤い線が走っていた。金属と傷と肌が、同じ視界の中に混在している。


 道具だ。この身体は、カナメが運用する戦術資産だ。義体の整備は、銃の手入れと同じ実務に過ぎない。


 そのはずだ。


 だが指先が記憶している温度は、鉄のそれではなかった。


「冷却液を補充する。動くな」


 カナメは声を平坦に保ち、カートリッジを義体の肩部ポートに接続した。透明な液体が管を通り、義体の内部に流れ込んでいく。レイナが目を細めた。


「……あー、沁みる。いい感じ」


「感想はいらない」


「アンタがあたしの中に液入れてるの、なんかエロくない」


「黙れ」


 レイナが笑った。欠けた犬歯が覗く、あの笑い方だ。カナメに叱られることすら楽しんでいる。


 点検は二十分で終わった。左肩のブースターは交換部品がないため応急処置に留まったが、神経連動プラグの過熱は解消され、冷却回路も安定した。左目の光学センサーは予備パーツを取り寄せるまで使えない。片目生活がしばらく続く。


 カナメは工具を片付け、レイナが昨夜の戦闘で使った大口径リボルバーのシリンダーから空薬莢を抜き取り、手早くススを拭ってから弾薬を補充した。それからコンテナの隅に置かれた小型の調理コンロに火を入れた。


 昨夜の莫大な報酬の何割かは、すでに物資の調達に回している。合成人工肉ではない。深夜の闇市場で手に入れた、比較的等級の高いランクAの培養肉と本物の塩、そして本物のコーヒー豆だ。カナメは上層の無菌室で育った影響か、スラムの底辺の泥水のような食事だけはどうしても慣れず、高くついても「自らの舌に合う最低ライン」を常に要求した。


 肉を焼き、コーヒー豆を挽く。香ばしい油とカフェインの匂いがコンテナを満たした。レイナが匂いに釣られるようにTシャツを被り、カナメの隣に座った。距離が近い。いつも通りだ。


「はい」


 カナメが皿とカップを差し出した。レイナは生身の右手で受け取り、肉に齧り付いた。


「んまッ! 何これ、いつものゴムみたいな肉と全然違う!」


「ランクAの培養ビーフだ。ついでにコーヒーも本物の豆を挽いた」


「アンタもよく金かけるね、こういうとこ」


「美味い食事は士気と生存本能を維持するための合理的投資だ。あの泥水を啜り続ければ、いずれ人間としての思考回路から腐る」


 二人でまともな食事を腹に入れ、香り高いコーヒーを啜った。酸性雨がトタン屋根を叩く音が、会話の隙間を埋めている。外の世界は相変わらず冷たく、灰色で、暴力と縄張りの言語で回っている。だがこのコンテナの中だけは、美味い食事と、安物のヒーターの微熱と、二人分の体温で、かろうじて人間らしい温度が保たれていた。


「あのさ」


 レイナがコーヒーのカップを両手で包みながら言った。


「いつも、このレベルのメシ食えるようになんの」


「なる。そのために仕事をしている」


「じゃあさ、その時もあたしと一緒に食ってくれんの」


 カナメはコーヒーを一口飲んだ。泥水の味がした。


「お前が使えなくなるまでは」


「……それ、アンタ的にはプロポーズだかんね」


「違う」


「あたしがそう決めた」


 レイナはバーガーの最後の一口を頬張り、不味そうに、だが満足そうに咀嚼した。


 食後の机の上に、記憶ドライブが一つ置かれていた。昨夜奪い取った上層のデータコアの複製コピーだ。オリジナルはすでに仲介屋を経由して依頼主に引き渡され、莫大な報酬に変わっている。だがカナメは引き渡し直前、中身のデータを丸ごと物理ドライブに複製し、手元に残していた。

 中身が因縁の「区画C」の非人道的な生体実験データであることは分かっている。だが、幾重にもかけられた強固な軍用暗号ロックの奥底にある全容は、まだ解析できていない。カナメは都市や軍事AIのアルゴリズムを設計するアーキテクト(構築者)としては特級だが、暗号を力技でこじ開け、システムに不正侵入するハッカー(破壊者)としての技術はまた別ベクトルなのだ。


 カナメはコーヒーの残りを飲み干し、記憶ドライブに視線を落とした。不味い朝食の時間は終わりだ。ここからは、泥の底から上へ這い上がり、この爆弾を突きつけるための設計図を引く時間が始まる。


 だが、隣でレイナが義体の左手でカップを不器用に持ち上げ、最後の一滴まで啜っている姿を、カナメは視界の端で見ていた。


 コーヒーを、二人で飲んでいる。それだけのことが、データコアの中身よりも、奇妙に重かった。

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