もっとこわいこと
付き合い始めてからのコウタは、少しこわい。
声は変わらない。
表情も変わらない。
言葉を選ぶ時に、少しだけ黙る癖も、そのまま。
それなのに。
距離だけが、近くなった。
前は一歩引いたところから、静かに見ている人だった。
必要以上に踏み込まない。
聞きすぎない。
優しいのに、どこか遠い。
それが、嘘みたいに近くなった。
「今日、甘いもの食べたいかなって」
仕事終わり、コウタが小さな紙袋を差し出す。
中にはプリンが入っていた。
あかりが仕事の休憩中に、なんとなく食べたいと思っていた店のものだった。
「なんで分かったんですか」
「顔」
「顔?」
「疲れてる時、そういう顔してる」
「どんな顔」
「甘いものを食べれば機嫌が戻りそうな顔」
「失礼じゃない?」
「違う?」
「違わないけど」
こわい。
言い方はいつも通り少し意地悪なのに、手元は優しい。
あかりの荷物を持つ時もそうだった。
「重いだろ」
「大丈夫です」
「大丈夫な持ち方じゃない」
そう言って、返事を待たずに袋を持つ。
けれど、手を引く時は少しだけ遠慮する。
「こっち」
短く言って、車道側に立つ。
こわい。
欲しいことを、欲しいタイミングでしてくれる。
でも、やりすぎない。
そこが余計にこわい。
ある日、コウタの仕事が終わる時間を見計らって、
あかりはライブハウスに寄った。
ドアの向こうから、機材を動かす音が聞こえる。
ケースの車輪が床を転がる音。
金具がぶつかる音。
誰かの笑い声。
その中に、コウタの声が混じっていた。
「だから、それは今言うことじゃないだろ」
「今言わないと忘れるじゃん」
ハヤテの声だった。
「忘れるなら大したことじゃない」
「出た。そういうところ」
「うるさい」
少し笑った。
こういうコウタは知っている。
少し冷たく聞こえるのに、突き放してはいない声。
ドアが開いた。
先に出てきたのはハヤテだった。
あかりを見つけると、ぱっと明るい顔になる。
「あ。うさぎちゃん」
「おい」
コウタの声が、ハヤテの後ろから飛んだ。
あかりは目を瞬かせる。
「うさぎちゃん?」
「コウタが、君のことうさぎに似てるって言っ……」
「ハヤテ」
それ以上言うな、という顔。
「はい」
ハヤテは笑って、両手を軽く上げた。
その後ろから、ヒナタがギターケースを持って出てくる。
「いきなり、うさぎちゃんは失礼だろ」
ヒナタはあかりを一度見て、いつもの調子で言った。
「ね、あーちゃん」
目を細めて、笑う。
「馬鹿、やめろ!!!」
今度は、コウタの声が裏返りかけた。
あかりは固まった。
ハヤテが声を出して笑う。
ヒナタも淡々と言う。
「何」
コウタが低く言う。
「こういう時だけさらっと呼ぶな」
「どういう時だよ」
ヒナタは悪びれない。
あかりはゆっくりコウタを見る。
コウタの耳は、はっきり分かるくらい赤かった。
「違う」
もう一度。
「違うから」
コウタは強めに言った。
ハヤテがにやにやしながら、肩にかけたスティックケースを持ち直す。
「まあ、俺たちもそんなに詳しく聞いてるわけじゃないんだけどさ」
「何を聞いているのか、こわいです」
あかりが言うと、ヒナタが少しだけ首を傾けた。
「プリンが好き」
「ヒナタ」
「動物は好きだけど、大きい犬は少し慎重」
「ヒナタ」
「疲れると甘いものを食べたくなる」
「やめろ」
「あと、モール閉店後の音が好き」
あかりはコウタを見る。
コウタは視線を逸らした。
「……そんな話、してるんですか」
「してない」
「してるじゃないですか」
「必要な情報だけ」
「何に必要なんですか」
「……会話」
ハヤテが限界みたいに笑った。
「会話って言った」
「笑うな」
「いや、ごめん。コウタがそういうこと言うの、面白すぎる」
「黙れ」
ハヤテには刺すように言う。
ヒナタには面倒そうに目を細める。
それなのに、あかりの方を見る時だけ、声の角が少し落ちる。
「あーちゃん、寒くない?」
急にそう言われて、あかりは返事が遅れた。
「え?」
「外、少し風あるから」
「あ、大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
コウタは一度あかりの手元を見る。
それから、自分の上着を少し持ち上げた。
「寒くなったら言って」
あかりは何も言えなくなった。
ハヤテが小さく口笛を吹く。
ヒナタが無表情で言う。
「怖いな」
「お前が言うな」
コウタが即座に返す。
あかりはそこで、やっと笑ってしまった。
こわい。
幸せすぎてこわい。
ハヤテとヒナタが、先に駐車場へ向かう。
コウタもあかりの荷物を持ち直した。
「行こう」
「はい」
裏口を出たところで、コウタがふいに足を止めた。
さっきまで赤かった耳から、すっと色が引く。
あかりは、その視線を追いかけそうになった。
「見なくていい」
低い声だった。
「え?」
「こっち」
コウタはあかりの前へ半歩出ると、いつもの駐車場とは反対側へ歩き始めた。
少し先にいたハヤテも、すぐに気づいて戻ってくる。
「いる?」
「いる」
短いやり取りだった。
ヒナタは何も聞かず、スマートフォンを取り出した。
その時、裏口の向こうから女性の声が聞こえた。
「待っているだけです」
怒鳴ってはいない。
静かで、落ち着いた声だった。
「話しかけるつもりもありません」
続いて、スタッフの声がする。
「こちらで待つこともお断りしています」
「でも、公道ですよね」
あかりは振り返らなかった。
振り返ってはいけない気がした。
コウタの手が、あかりの背中に触れないぎりぎりの位置にある。
急かすためではなく、守るための距離だった。
少し離れてから、あかりは小さな声で聞いた。
「知っている人ですか」
コウタはすぐには答えなかった。
「前は、ライブに来てた」
「今は?」
「入れない」
それだけ。
ハヤテも、いつものようには笑わない。
ヒナタはスタッフへ何かを伝えながら、後ろを一度だけ確認した。
あかりはそこで初めて気づいた。
三人にとって、これは初めてではない。
コウタが迷わず自分の前へ出たことも。
ハヤテがすぐに戻ってきたことも。
ヒナタが何も聞かずに連絡を入れたことも。
全部、慣れている人の動きだった。
好きだと言われること。
見ていたいと思われること。
その先に、こんな怖さがあることを、あかりは知らなかった。
さっきまで、自分の話をされていることが幸せすぎてこわかった。
けれど今は、その言葉が少し違って聞こえた。
あかりはしばらく黙っていた。
コウタは隣を歩いている。
手には、あかりの荷物。
歩道の車道側に、当たり前みたいに立っている。
さっきまでとは違って、何度か後ろを確かめながら。
それでも、歩く速さだけは、あかりに合わせていた。
静かに、守るように。
靴音が、妙に耳に残った。
こつ。
こつ。
さっきハヤテが言った「うさぎちゃん」。
ヒナタがさらっと言った「あーちゃん」。
コウタが本気で止めに入った声。
それから。
さっきまで笑っていた三人の空気が、一瞬で変わったこと。
全部、頭の中でまだ鳴っていた。
「……こわいです」
あかりが言うと、コウタの足が止まった。
「ごめん」
思いがけないほど、すぐだった。
あかりは目を瞬かせる。
「え?」
「巻き込むつもりはなかった」
声が少し低い。
さっきの女性のことだと分かって、あかりは慌てた。
「違います」
「違う?」
「そっちも少し怖かったですけど」
「少し?」
「かなり」
「……ごめん」
「だから、謝ってほしいわけじゃなくて」
あかりは少し迷ってから、コウタを見る。
「コウタさん、私の話、しすぎじゃないですか」
コウタは黙った。
「してない」
「してます」
「必要な分だけ」
「何に必要なんですか」
「……会話」
あかりは思わず笑った。
さっきまで張っていたものが、少しだけほどける。
けれど、そのあとすぐに胸の奥がぎゅっとした。
自分のいないところで、自分のことが話されている。
プリンのこと。
仕事終わりのこと。
閉店後の店の音のこと。
たぶん、呼び方のことまで。
それが恥ずかしい。
嬉しい。
こわい。
「このままだと、そのうちもっとこわいことが起こりそう」
冗談のつもりだった。
けれど、コウタはまた足を止めた。
あかりもつられて止まる。
夏の夜の音が、少しだけ遠くなる。
車の音。
信号の音。
コウタが持っている鍵の、小さな金具の音。
コウタは、しばらく黙っていた。
「……もっとこわいこと」
「はい」
「たぶん、ある」
あかりは瞬きをした。
「あるんですか」
「ある」
「何ですか」
コウタは少しだけ視線を逸らした。
「今は言わない」
「え」
「ちゃんとしたところで言う」
あかりは固まった。
聞き返したい。
でも聞き返したら、今ここで何かが始まってしまいそうで、こわい。
「……こわすぎませんか」
「こわがってるの、そっちだろ」
「そうですけど」
「じゃあ、まだ言わない」
「それもこわいです」
コウタは少しだけ笑った。
あかりは両手で顔を覆った。
本当にこわい。
言葉にしなくても、
大切にされていることが分かる。
口数は少なくても、
守ってくれていることが分かる。
この人の日常の中に、もう自分がいる。
楽しいことだけではない場所にも。
それが、幸せすぎてこわい。
こわいのに、逃げたいとは少しも思わなかった。




