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まだ、鳴っている   作者: 山吹 ことり


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9/9

誰もいないアンコール

 そのライブハウスは、駅から少し離れた古いビルの地下にあった。


 初めて来る街。

 初めて入る箱。

 外は夏の夕方でまだ明るいのに、階段を下りると急に空気が冷えた。


 壁には、昔のフライヤーが何枚も貼られていた。


 色の褪せた写真。

 読めないバンド名。

 日付だけが妙にはっきり残っているポスター。


 ヒナタは階段の途中で、一度足を止めた。


「古いな」


「嫌な言い方するなよ」


 ハヤテが笑う。


 コウタは壁のポスターを見ながら言った。


「でも、音は残りそうだな」


「お前も嫌なこと言うな」


 ハヤテがそう言って、スティックケースを持ち直す。


 地下の扉を開けると、まだ客のいないフロアが広がっていた。


 黒い壁。

 低い天井。

 ステージの奥に積まれたアンプ。


 照明は半分だけついている。


 客席には誰もいない。


 なのに、咳払いが聞こえた。


 小さく。


 こほん、と。


 三人とも、同時に客席を見た。


 誰もいない。


 スタッフがフロアの奥から顔を出した。


「おはようございます。スノーフレークスさんですね」


 ハヤテがすぐ笑顔になる。


「お願いします」


 ヒナタはまだ客席を見ていた。

 コウタも、何も言わなかった。


 リハは、妙に音が返った。


 ヒナタがギターを鳴らすと、少し遅れて同じ音が天井から降りてくる。

 コウタのベースは、床の下でもう一度鳴っているみたいに低く揺れた。

 ハヤテがスネアを叩くたび、客席の奥から小さく返る。


 ぱん。


 叩いた音ではない。

 手を叩く音に近かった。


「今、拍手みたいなの入った?」


 ハヤテが言った。


 スタッフが卓から顔を上げる。


「拍手?」


「いや、気のせいかも」


 ハヤテは笑った。

 でも、少しだけ笑い方が浅かった。


 コウタは客席の一番後ろを見た。


 黒い壁の前に、誰も座っていない椅子が並んでいる。

 その一番端だけ、少し前に出ていた。


 まるで、誰かが立ち上がったあとみたいに。


 本番は、何も起きなかった。


 客は入った。

 声もあった。

 拍手もあった。


 一曲目が始まれば、音の違和感は消えた。


 ヒナタのギター。

 コウタのベース。

 ハヤテのドラム。


 いつものように重なった。


 古い箱の鳴りも悪くなかった。


 むしろ、よかった。


 音が近い。

 壁が拾う。

 床が返す。


 何度か、客席の奥で誰かが笑った気がした。


 でも、ライブ中ならよくある。


 誰かが泣いているような声も聞こえた。


 それも、音の中ならよくある。


 最後の曲が終わると、客席から大きな拍手が上がった。


 ハヤテがスティックを上げる。

 コウタが軽く頭を下げる。

 ヒナタがギターのボリュームを絞る。


 アンコールも一曲やった。


 それで終わった。


 照明が明るくなる。


 客が帰っていく。


 スタッフがフロアを片づけ始める。


 物販の片づけも終わり、機材をばらし始めた頃には、客席は空になっていた。


 床に落ちた紙くず。

 忘れ物のタオル。

 誰かが飲み残したペットボトル。


 それだけだった。


 ハヤテがスネアをケースにしまっていた時。


 ぱち。


 拍手がした。


 手を止める。


 コウタも振り向く。


 ヒナタがアンプの電源を落とした。


 ぱち。


 もう一度。


 客席の奥から。


 誰もいないフロアから、拍手が聞こえた。


「……スタッフさん?」


 ハヤテが声をかけた。


 返事はない。


 卓の方にいたスタッフは、ちょうど上へ荷物を運びに行っている。


 地下には、今は三人しかいないはずだった。


 ぱち。


 ぱち。


 ぱち。


 拍手は増えなかった。


 一人分だけ。


 ゆっくりと、同じ間隔で鳴っている。


 コウタが低い声で言った。


「行くなよ」


「分かってる」


 ハヤテはそう言った。


 けれど、足はステージの端へ向かっていた。


 ヒナタがその前に出る。


「見るだけ」


「見るなって言ってるんだよ」


 コウタの声が少し強くなる。


 その瞬間、フロアの照明が一度だけ落ちた。


 暗くなる。


 非常灯だけが、客席の奥を緑に照らす。


 拍手が止まった。


 静かだった。


 空調の音もない。

 アンプの残留ノイズもない。

 機材ケースの金具が揺れる音もない。


 何も聞こえない。


 それが一番おかしかった。


 ライブハウスは、無音にならない。


 どこかで必ず何かが鳴っている。


 なのに、今は何もなかった。


 その無音の中で、声がした。


「もう一曲」


 近くではない。


 客席の奥でもない。


 スピーカーの中からだった。


 三人はステージを見る。


 メインスピーカーの電源は落ちている。


 卓も切ってある。


 マイクも抜いた。


 音が出るはずがない。


 それなのに、もう一度聞こえた。


「もう一曲」


 子どもの声のようにも聞こえた。


 年寄りの声のようにも聞こえた。


 男でも女でもない。


 たくさんの声を、無理にひとつにまとめたみたいな声だった。


 ハヤテが小さく言った。


「これ、やばいやつじゃない?」


「今さらか」


 コウタが答える。


 ヒナタは何も言わず、ギターケースを閉めた。


 ぱち。


 また拍手。


 今度は二人分だった。


 ぱち。


 ぱち。


 ぱち。


 客席の奥ではない。


 フロアのあちこちから聞こえる。


 誰もいない椅子。

 壁際。

 照明卓の前。

 ステージの真下。


 拍手だけが、少しずつ増えていく。


 ぱち。

 ぱち。

 ぱち。

 ぱち。


 ハヤテの顔から、完全に笑いが消えた。


「帰ろう」


 珍しく、ハヤテが先に言った。


「そうだな」


 コウタがベースケースを持つ。


 その時、ステージ上のアンプが鳴った。


 ブン、と低い音。


 コウタが凍りつく。


 ベースは、もうケースの中だった。


 シールドも抜いている。


 それなのに、アンプから低い音が鳴った。


 さっきの本番で、コウタが弾いた最後の音。


 まったく同じ音だった。


 次に、シンバルが揺れた。


 誰も触れていない。


 薄い金属音が、暗いステージに広がる。


 最後に、ヒナタのギターの余韻が鳴った。


 アンプは切れている。


 ギターはケースの中。


 それでも、三人の音だけが、ステージの上で勝手に鳴り始めた。


 さっき終わったはずの曲。


 最後のサビ。


 客席のないフロアに、誰も演奏していないSnow flakesの音が流れている。


 少しだけ遅い。


 少しだけ歪んでいる。


 そして、どこかが違う。


 コウタが唇を噛んだ。


「俺、こんな音出してない」


「俺も」


 ハヤテが言う。


 ヒナタはステージを見たまま、低く言った。


「混ざってる」


 何が、と聞く必要はなかった。


 三人の音の中に、知らない音が混じっている。


 ギターでもない。

 ベースでもない。

 ドラムでもない。


 歌でもない。


 拍手の音だった。


 拍手が、曲の中に入り込んでいる。


 ぱち。


 ぱち。


 ぱち。


 それがリズムになっている。


 それが鳴るたび、客席の椅子が少しずつ前にずれる。


 一列目。

 二列目。

 三列目。


 誰かが座っているみたいに、椅子の背が小さく軋む。


 ぎ。


 ぎ。


 ぎ。


 見えない客席が、埋まっていく。


「出るぞ」


 コウタが言った。


 今度は誰も逆らわなかった。


 三人は機材を一部残したまま、楽屋へ向かう。


 楽屋のドアを開ける。


 中に入った瞬間、全員が止まった。


 楽屋のテーブルの上に、セットリストが置かれていた。


 自分たちが置いたものではない。


 紙は古かった。


 黄ばんでいて、端が湿っている。


 けれど、文字だけは新しい。


 今日のセットリスト。


 一曲目から、アンコールまで。


 全部、正しく書かれている。


 その下に、もう一行あった。


 M EN2 もう一曲


 ハヤテが小さく息を吐いた。


「誰が書いたんだよ」


 誰も答えない。


 答えの代わりに、フロアから拍手が聞こえた。


 さっきより大きい。


 ぱちぱちぱちぱち。


 無人の客席が、アンコールを求めている。


 足音が近づいてくる。


 ステージからではない。


 客席からでもない。


 楽屋のドアの向こう、細い廊下を、何人もの足音が歩いてくる。


 こつ。


 こつ。


 こつ。


 こつ。


 多すぎる。


 この狭い地下に、そんな人数が入れるはずがない。


 ハヤテがドアの鍵をかけた。


 手が震えている。


「これ、鍵意味ある?」


「あると思え」


 コウタが言う。


 ヒナタはテーブルの上のセットリストを見ていた。


 そして、何も言わずにその紙を破った。


 びり。


 乾いた音がした。


 足音が止まる。


 拍手も止まる。


 地下全体が、一瞬で静かになった。


 ヒナタは破った紙を、さらに細かく破る。


 びり。


 びり。


 びり。


 そのたびに、廊下の向こうで何かが引っかく音がした。


 がり。


 がり。


 がり。


 ドアの下から、冷たい空気が入ってくる。


 ハヤテが後ずさった。


「ヒナタ、やめた方が」


「残すな」


 ヒナタは短く言った。


「これ、残すな」


 最後の一片を破った瞬間、楽屋の電気が落ちた。


 真っ暗になった。


 その暗闇の中で、ドアのすぐ向こうから声がした。


「もう一曲」


 近い。


 ドア一枚の向こう。


「もう一曲」


 今度は、三人の声だった。


 ヒナタの声。

 コウタの声。

 ハヤテの声。


 それが、同時に言った。


「もう一曲」


 ハヤテが息を呑む。


 コウタは壁に背中をつける。


 ヒナタは何も言わない。


 暗闇の中で、三人は動けなかった。


 どれくらい経ったのか分からない。


 やがて、上の階からスタッフの声がした。


「すみません、ブレーカー落ちました?」


 照明が戻る。


 楽屋も、廊下も、いつもの古い地下に戻っていた。


 ドアの向こうには誰もいない。


 フロアにも誰もいない。


 ステージの上には、片づけ途中の機材があるだけだった。


 テーブルの上には、破れた紙もなかった。


 スタッフは何も知らない顔をしていた。


 拍手も、声も、足音も聞いていないと言った。


 三人は機材をまとめ、必要なことだけ話し、できるだけ早くそのライブハウスを出た。


 階段を上がると、外はまだ蒸し暑かった。


 夏の夜の空気が、まとわりつく。


 ハヤテはビルを振り返らなかった。


 コウタも黙っていた。


 ヒナタだけが一度、地下へ続く階段を見た。


 そして、低く言った。


「二度と来ない」


「同感」


 コウタが即答した。


 ハヤテも頷く。


「満場一致」


 その夜、ホテルに戻っても、三人はしばらく眠れなかった。


 隣の部屋の水音。

 廊下を歩く誰かの足音。

 エアコンの低い唸り。


 全部が、あの地下の音に聞こえた。


 深夜三時を過ぎた頃。


 ハヤテは、廊下で笑い声を聞いた。


 小さな声。


 子どものようにも聞こえた。

 年寄りのようにも聞こえた。


 男か、女かも分からない。


 ただ、何人かが、声を抑えて笑っている。


 ハヤテはベッドの上で息を止めた。


 廊下の向こうから、足音が近づいてくる。


 こつ。


 こつ。


 こつ。


 その間に、笑い声が混じる。


 ひとつの声ではない。


 何人もの声が、同じところで笑っている。


 足音は、ハヤテの部屋の前で止まった。


 笑い声も止まる。


 しばらく、何も聞こえなかった。


 その静けさの中で。


 ぱち。


 ドアのすぐ外で、拍手が一つ鳴った。


 ハヤテはベッドを降りた。


 靴も履かず、スマートフォンだけを持って部屋を出る。


 廊下には誰もいなかった。


 非常灯。

 並んだドア。

 薄暗い絨毯。


 それだけだった。


 けれど、廊下の奥で、また笑い声がした。


 ハヤテは振り返らず、コウタの部屋へ向かった。


 ドアを叩く。


 一度目で、返事があった。


「何」


「開けて」


 ドアが開く。


 コウタは眠そうな顔をしていたが、ハヤテの表情を見て、何も聞かずに中へ入れた。


「廊下で、笑ってる」


「誰が」


「分かんない」


 その時、廊下の向こうで、また声がした。


 くすくす。


 何人もの声。


 コウタの顔から眠気が消えた。


「ヒナタは」


 ハヤテが電話をかける。


 数回鳴って、ヒナタが出た。


「何」


 ハヤテが答える前に、電話の向こうで音がした。


 ぱち。


 短い拍手。


 ヒナタが黙る。


「そっちも?」


「……うん」


 数分後、ヒナタが部屋に入ってきた。


 髪は少し乱れていた。

 けれど、眠そうな顔はしていなかった。


 電気はつけたまま。


 コウタは壁にもたれて座り、

 ヒナタは窓際の椅子に座り、

 ハヤテはベッドの端に腰をかけた。


 話すことはなかった。


 廊下を歩く音。

 遠くで鳴るエレベーター。

 空調の低い唸り。


 その合間に、ときどき笑い声が混じった。


 近づいているのか。

 遠ざかっているのか。


 分からなかった。


 朝方、ハヤテが少しだけ眠った。


 コウタも、いつの間にか目を閉じていた。


 ヒナタだけが起きていたようにも見えたし、

 眠っていたようにも見えた。


 カーテンの隙間から光が入り始めた頃には、

 笑い声は聞こえなくなっていた。


 廊下にも、何も残っていなかった。


 三人はその夜のことを、詳しく話さなかった。


 フロントへ降りる時も。

 ホテルを出る時も。

 駐車場へ向かう間も。


 誰も、笑い声のことを口にしなかった。


 機材車に荷物を積む。


 ケースを置く音。

 ドアを閉める音。

 エンジンがかかる音。


 全部が、少しだけ大きく聞こえた。


「よし」


 ハヤテが何気なく手を叩きかけて、

 すぐにやめた。


 コウタがそれを見て、低く言った。


「今、それやったら置いていく」


「やらないって」


 ハヤテは笑おうとして、笑えなかった。


 コウタが運転席に乗り込む。


 ハヤテは後部座席に座り、

 ヒナタは助手席に乗り込み、窓の外を見た。


 コウタはミラー越しに、二人を見る。


「出るぞ」


 コウタがアクセルを踏んだ。


 機材車が、ゆっくり走り出す。


 音が、少しずつ遠ざかる。


 それでも、三人とも分かっていた。


 まだ、鳴っている。


夏はまだ、終わっていない。

音はまだ、鳴っている。


Snow flakes 本編は、

毎日21:00更新です。


さらに、オフィシャルサイトにて

限定エピソードを公開します。


7月30日、8月2日、8月6日

各日23:00公開。


そして8月10日より、

小説家になろうにて

短期連載『音の鳴る石』が始まります。


この夏に残る、音の物語。

ぜひお楽しみください。


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