返しが先に鳴る
夜のスタジオは、録音が終わったあとも音が残っている。
アンプの熱が冷める音。
床に置かれたシールドが、少しだけ戻る音。
エアコンの風が、マイクスタンドの金具に当たる音。
鳴らした音より、
鳴らし終えたあとの音の方が、よく聞こえる時がある。
小雪はコントロールルームで、モニターの前に座っていた。
ヒナタのギター録りは、予定より早く終わっていた。
最後のテイクを録り終えると、
ヒナタはヘッドホンを外し、ブースの中で少しだけ息を吐いた。
「これでいい?」
「うん。たぶん」
小雪がそう答えると、ヒナタは小さく肩をすくめた。
「好きにして」
それだけ言って、ヒナタはスタジオを出た。
好きにして、というわりに、
残してほしい音はちゃんと残してある。
ピックが弦に触れる直前の小さな擦れ。
コードを変える時の指の音。
息を止める一瞬の空白。
小雪は、そういう音を消さない。
ヒナタの音だから。
画面には、いくつものテイクが並んでいる。
使うもの。
使わないもの。
少しだけ残しておくもの。
あとで聴き直すもの。
小雪はヘッドホンを片耳だけ外し、最後のテイクを拡大した。
波形の終わりに、細い線が残っている。
無音のはずの場所。
「……何これ」
再生ボタンに指を伸ばした時だった。
返しから、短くギターが鳴った。
小雪は手を止める。
まだ、押していない。
画面の再生位置も動いていない。
それなのに、ヘッドホンの奥で音だけが先に鳴った。
ヒナタのギターだった。
小雪はゆっくり息を吐いた。
返しの音量を確認する。
ルーティングも見る。
どこかに遅延が残っているのか、モニターの設定がおかしいのか。
何もおかしくない。
小雪はもう一度、再生ボタンに指を近づける。
押す前に、また鳴った。
ギターの余韻。
さっき聞いたものと、同じ音。
けれど、ほんの少しだけ早い。
曲の終わりに残るはずの音が、
再生より先に、返しから来る。
「……やめて」
誰に向けた言葉でもなかった。
それでも小雪は、再生した。
ギターの音が流れる。
歪み。
揺れ。
少しだけ荒い息。
そこまでは、さっき聞いた通りだった。
曲が終わる。
余韻が消える。
その後に、声が入っていた。
「小雪」
小雪は手を止めた。
ヒナタの声。
低くて、近い声。
ヘッドホンの中で、耳のすぐ奥から呼ばれたように聞こえた。
小雪は画面を見る。
声の波形がない。
音は聞こえた。
でも、そこには何も出ていない。
録れていない音。
聞こえるだけの音。
小雪は再生を止めた。
コントロールルームは静かだった。
エアコンの音。
パソコンのファンの音。
遠くの廊下で、誰かがドアを閉める音。
普通の音。
小雪は、使わなかったテイクのフォルダを開いた。
そこに、ひとつだけ知らないテイクが残っていた。
録った覚えはある。
けれど、残した覚えはない。
途中で止めた。
ヒナタが少しだけ弾き直して、
小雪が「これは使わない」と判断して、
削除したはずのテイク。
それが、そこにあった。
名前はついていない。
ただの空白みたいなファイル。
そのテイクのメーターだけが、小さく振れた。
音は出ていない。
でも、メーターだけが動いている。
小雪。
小雪。
小雪。
呼ばれているように見えた。
波形ではなく、
音でもなく、
画面の中で、名前だけが揺れているように見えた。
「……そういうの、嫌い」
小雪はヘッドホンを外そうとした。
その前に、返しから声がした。
「ごめん」
小雪は固まった。
ヒナタの声に似ている。
でも、違う。
ヒナタはそんなふうに謝らない。
言葉の前に、少しだけ間がある。
考えているのか、言いたくないのか分からない沈黙がある。
目を逸らしてから、ようやく言葉にする。
今の声には、それがなかった。
きれいすぎた。
真似ただけの声だった。
「まだ、そこにいるの」
返しの中で、声が続く。
小雪はヘッドホンを机に置いた。
音は止まらなかった。
スピーカーから、低いノイズが流れる。
ざらざらした音。
古いテープを巻き戻すような音。
誰かの息を、逆さにしたような音。
「残して」
小雪は、ゆっくり画面を見る。
知らないテイクのメーターが、まだ動いていた。
「残して」
同じ声。
ヒナタに似た声。
「残して」
小雪は首を横に振った。
「違う」
声が止まる。
「それは、ヒナタの音じゃない」
コントロールルームの空気が、少しだけ冷えた。
小雪は椅子に座ったまま、画面を見ていた。
消せばいい。
そう思う。
でも、カーソルを動かせなかった。
消そうとした瞬間に、
何かがこっちへ来る気がした。
残したらいけない。
でも、触ってもいけない。
そういう音だった。
その時、ドアが鳴った。
少し急いでいて、
でも強すぎない。
そのあとに、短い間がある。
「小雪」
ドアの向こうから声がした。
低くて、少しだけ不機嫌そうな声。
けれど、その前にちゃんと息があった。
声になる前の、小さな音があった。
「まだいる?」
一気に力が抜けた。
「いる」
ドアが開く。
ヒナタが立っていた。
「ピックケース忘れた」
そう言って、コントロールルームに入ってくる。
靴音。
服の擦れる音。
ブースを見る時の、ほんの小さな息。
音がある。
生きている音がある。
小雪は思わず笑った。
「本物だ」
「何が」
ヒナタが眉を寄せる。
「呼んで」
「何を」
「私の名前」
ヒナタは少しだけ黙った。
それから、面倒そうに視線をそらす。
「……小雪」
その間。
その声。
その照れ隠しみたいな雑さ。
小雪は頷いた。
「うん。本物」
「意味分かんない」
ヒナタはそう言いながら、机の上の画面を見た。
「何これ」
「残ったテイク」
「使うのか」
「使わない」
小雪はマウスを持った。
さっきまで動かなかった指が、今は動いた。
知らないテイクを選ぶ。
削除する。
確認画面が出る。
本当に削除しますか。
小雪は迷わなかった。
消す。
画面から、空白のテイクが消えた。
同時に、返しのノイズも止まった。
ヒナタは少しだけ黙っていた。
「消してよかったの」
「うん」
「珍しいな」
「残せる音と、残しちゃいけない音がある」
ヒナタは答えなかった。
ただ、ブースの照明を消した。
部屋の中が少し暗くなる。
エアコンの音が戻る。
パソコンのファンの音が戻る。
ヒナタがすぐ隣で息をする音が聞こえる。
小雪はそれを聞いて、ようやく安心した。
帰り際、スタジオのドアを閉める直前。
返しのメーターが、一度だけ振れた。
音は出なかった。
けれど、小雪には分かった。
また、先に鳴ろうとした。
ヒナタも画面を見ていた。
「今の」
「うん」
「鳴った?」
「鳴らなかった」
「じゃあ、いい」
「よくない」
小雪が言うと、ヒナタは少しだけ目を細めた。
それから、何も言わずにドアを閉める。
カチリ、と鍵の音。
廊下に出ると、夜の空気が少しだけ重かった。
「小雪」
先に口を開いたのは、ヒナタだった。
「今日は、一人で帰るな」
小雪は足を止めた。
「それ、心配してる?」
「してない」
「嘘」
ヒナタは答えなかった。
その沈黙は、ずるい。
小雪は小さく息を吐いて、前を向く。
「……分かった」
「うん」
ヒナタはそれだけ言って、隣に並んだ。
二人分の足音が、廊下に残る。
閉まったドアの向こうでは、もう何も鳴っていなかった。




