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まだ、鳴っている   作者: 山吹 ことり


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4/9

氷が呼ぶ

 閉店後のバーは、音だけになる。


 客の声が消える。

 グラスを置く音が消える。

 笑い声も、足音も、煙草に火をつけるライターの音も消える。


 残るのは、冷蔵庫の低い唸りと、製氷機の奥で氷が崩れる音だけだった。


 りんはカウンターの内側で、最後のグラスを拭いていた。


 午前二時を少し過ぎている。


 外は夏の夜だった。

 店の扉の向こうには、湿った空気が貼りついている。

 看板の明かりはもう落とした。

 ドアの鍵も閉めた。


 今日の営業は終わっている。


 りんはグラスを棚に戻し、カウンターの上を布巾で拭いた。


「……よし」


 小さく呟いた時だった。


 カラン。


 氷の音がした。


 製氷機ではない。


 カウンターの上。


 客席側。


 誰かが、グラスの中の氷を揺らした音。


 りんはゆっくり顔を上げた。


 客席には誰もいない。


 カウンター席も空いている。

 テーブル席も空いている。

 入口のドアも閉まっている。


 鍵も、かかっている。


「……」


 カウンターの端までゆっくりと歩き、客席を見渡した。


 誰もいない。


 ただ、一番奥の席だけ、椅子が少し引かれていた。


 さっきまで、そこに客はいなかったはずだった。


 カラン。


 また鳴った。


 今度ははっきり聞こえた。


 奥の席ではない。


 カウンターの真正面。


 誰も座っていない席の前で、氷が鳴った。


 りんは息を止めた。


 そこにはグラスが置かれていた。


 ロックグラス。


 営業中に使ったものではない。

 さっき全部洗って、棚に戻した。


 そのはずだった。


 けれど今、カウンターの上にひとつだけ置かれている。


 グラスの中には、大きな氷が一つ入っていた。


 氷は濡れていない。

 溶けてもいない。


 置かれたばかりみたいに、透明だった。


 グラスを見下ろす。


 氷が、小さく鳴る。


 カラン。


 誰も触れていない。


 それなのに、氷だけがグラスの中で揺れている。


「……お客様」


 りんは、いつもの声で言った。


 自分でも少し驚くくらい、声は落ち着いていた。


「本日の営業は終了しております」


 返事はない。


 代わりに、カウンターの上でコースターが一枚、すっと前に滑った。


 音もなく。


 りんの手元へ。


 いつものを。


 りんは眉を寄せた。


 知らない。


 見えない客の「いつもの」など、分かるわけがない。


 そう思った瞬間、棚の奥で瓶が鳴った。


 カチン。


 りんはそちらを見る。


 古いジンの瓶だった。


 普段、ほとんど出ない。

 棚の端に置いてある、少し癖の強い一本。


 次に、シロップの瓶が鳴った。


 カチン。


 最後に、冷凍庫の中で何かが揺れる。


 小さなベルのような音。


 りんはその音を知っていた。


 薄いグラスを冷やしている時の音だ。


「ジンベース」


 りんは静かに言った。


「甘め。冷たいグラス」


 氷が鳴った。


 カラン。


 肯定のようだった。


 りんはしばらく動かなかった。


 帰ればいい。


 鍵を閉めたまま、店を出ればいい。


 明日の朝、明るくなってから確認すればいい。


 そう思う。


 けれど、カウンターの上にグラスがある。


 氷がある。


 コースターがある。


 注文がある。


 りんは小さく息を吐いた。


「一杯だけです」


 そう言って、手を洗った。


 グラスを取る。

 氷を入れる。

 ジンを注ぐ。


 液体が氷に触れた瞬間、細い音がした。


 ピシ。


 氷に小さなひびが入る音。


 りんの指先が止まった。


 バーではよくある音だ。


 冷えた氷に酒を注げば、ひびが入る。

 珍しいことではない。


 でも、その音が妙に近かった。


 まるで耳元で鳴ったみたいに。


 ピシ。


 もう一度。


 りんはシェーカーを手に取った。


 金属の冷たさが手のひらに馴染む。


 ジン。

 シロップ。

 少しだけレモン。


 蓋を閉める。


 そして、振った。


 シャッ。

 シャッ。

 シャッ。


 閉店後の店に、シェーカーの音だけが響く。


 いつもの音だった。


 でも今日は、その奥に別の音が混じっていた。


 シャッ。


 カラン。


 シャッ。


 カラン。


 りんが振るたびに、誰もいないカウンターのグラスの氷が返事をする。


 同じリズムで。


 同じ強さで。


 まるで、向こう側にも誰かがいて、同じようにグラスを振っているみたいだった。


 りんは止めなかった。


 止めたら、次に何が鳴るのか分からない。


 だから、最後まで振った。


 シェーカーを開ける。

 冷えたグラスに注ぐ。


 淡く白い液体が、薄いグラスの中に落ちていく。


 音は、ほとんどしなかった。


 りんはグラスをコースターの上に置いた。


「どうぞ」


 誰もいない席に向かって言う。


 その瞬間、カウンターの向こうで椅子が鳴った。


 ぎし。


 誰かが座り直した音。


 りんは顔を上げなかった。


 見てはいけない。


 そう思った。


 理由は分からない。

 けれど、目で確かめたら終わる気がした。


 グラスが持ち上がる音がした。


 氷が鳴る。


 カラン。


 それから、ひと口飲む音。


 喉を通る音までは聞こえない。


 ただ、グラスが置かれる音だけが、はっきり響いた。


 コトン。


 りんはカウンターの内側で立っていた。


 冷蔵庫の唸りがやけに遠い。


 外の車の音も聞こえない。


 店の中には、見えない客が酒を飲む音だけがあった。


 コトン。


 グラスがまた置かれる。


 少しずつ減っているのだろう。


 りんは見なかった。


 見る代わりに、瓶のラベルを整えた。

 使った器具を洗った。

 シェーカーを拭いた。


 手順だけを追った。


 仕事にしてしまえば、怖さは少しだけ薄くなる。


 最後に、グラスの中で氷が大きく鳴った。


 カラン。


 飲み終えた音だった。


 りんはそこで初めて、カウンターの向こうを見た。


 席には誰もいない。


 グラスは空だった。


 コースターの上に、濡れた輪だけが残っている。


 その輪の真ん中に、硬貨が一枚置かれていた。


 古い五百円玉。


 今のものではない。


 りんはそれに触れなかった。


「ありがとうございました」


 そう言うと、入口のドアベルが鳴った。


 チリン。


 鍵は閉まっている。


 ドアは開いていない。


 それでも、誰かが店を出ていった音だけがした。


 りんはしばらく立っていた。


 カウンターのグラスを片付ける。


 りんはグラスを見つめ、

 それから、何も言わずに洗った。


 水の音が、やけに大きく聞こえた。


 翌日。


 開店前の店に入ると、カウンターはいつも通りだった。


 グラスも棚に戻っている。

 コースターも乾いている。

 古い五百円玉は、どこにもなかった。


 少しだけ安心した。


 夢だった。


 疲れていた。


 そう思うことにした。


 その夜、最初の客が来るまでの間、店は静かだった。


 冷蔵庫の低い唸り。

 製氷機の奥で氷が崩れる音。


 いつもの音。


 りんは棚からグラスを取った。


 その時、カウンターの一番奥で、小さく音がした。


 カラン。


 氷の音。


 まだ、客は入れていない。


 入口の鍵も、開けていない。


 カウンターの上には、空のロックグラスが二つ並んでいた。


 それぞれの中で、透明な氷がゆっくり揺れている。


 カラン。


 少し遅れて、もうひとつ。


 カラン。


 りんはしばらく、その二つのグラスを見ていた。


 それから、静かに息を吐く。


 今度は、二つの氷が同じタイミングで鳴った。


 カラン。


「……」


 りんは棚の奥のジンに手を伸ばした。


 昨日、勝手に鳴った瓶。


 指先が、瓶の首に触れかける。


 その時、入口のドアベルが鳴った。


 チリン。


 手が止まる。


 鍵は、もう開けていた。


 けれど、まだ開店前だ。


「ちょっと早いけど、いい?」


 聞き慣れた声がした。


 ハヤテだった。


 なんでもない顔で店に入り、そのままカウンターの奥の席へ向かう。


 りんは思わず息を呑んだ。


「あ、そこは」


「え?」


 ハヤテが振り向く。


 その席には、ロックグラスが二つ並んでいた。


 透明な氷が、それぞれの中でゆっくり揺れている。


 ハヤテはグラスを見た。


「あれ? もうグラス出てる」


 りんは何も言えなかった。


「なんで二つ?」


 ハヤテはそう言って、普通にその席へ座った。


 思わず笑ってしまった。


「強い。怖い」


「へ?何が?」


 その瞬間。


 片方のグラスの氷が、小さく鳴った。


 カラン。


 ハヤテはそちらを見た。


「今の、俺じゃないよね」


 りんは笑うのをやめた。


 もう片方のグラスの氷も、遅れて鳴る。


 カラン。


 店の中には、冷蔵庫の低い唸りと、二つの氷の音だけが残っていた。


 ハヤテはしばらくグラスを見ていた。


 それから、少しだけ声を落として言った。


「……やっぱ、席変えていい?」


 りんは静かに頷いた。


「その方がいいと思う」


 ハヤテが立ち上がる。


 空いた椅子が、誰も触れていないのに、ほんの少しだけ軋んだ。


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