表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
まだ、鳴っている   作者: 山吹 ことり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/7

叩き返すな

 夜のスタジオは、昼間より音が近い。


 壁も。

 床も。

 天井も。


 全部が、少しだけ耳の方へ寄ってくる。


 ハヤテはドラムセットの前に座り、スティックを指の間で回した。


 時計は、もう二十三時を過ぎていた。


 ヒナタは珍しく先に帰った。

 コウタも、明日の確認があると言って帰った。


 残っているのはハヤテだけ。


「一回だけ」


 誰に言うでもなく、ハヤテはそう呟いた。


 新しい曲の入りが、少しだけ気に入らない。


 難しいわけではない。

 叩けないわけでもない。


 ただ、最初の一打が浅い。


 自分では分かる。

 こういう時は、身体が納得するまで叩いた方が早い。


 メトロノームを鳴らす。


 カッ、カッ、カッ、カッ。


 いつもの音。


 ハヤテは一度目を閉じ、息を吐いた。


 右手。

 左手。

 足。


 音が重なる。


 スネア。

 ハイハット。

 キック。


 夜のスタジオに、ドラムだけが鳴る。


 しばらく叩いて、ハヤテは手を止めた。


「……違うな」


 スティックの先で、スネアの縁を軽く叩く。


 コン。


 その音が、壁に当たって戻ってくる。


 コン。


 ハヤテは少しだけ眉を上げた。


 今のは、返りが早すぎた。


 もう一度、叩く。


 コン。


 すぐに返ってくる。


 コン。


「反響、こんなだったっけ」


 誰も答えない。


 エアコンの低い音だけが鳴っている。


 ハヤテは、もう一度スネアの縁を叩いた。


 コン。


 コン。


 返ってきた。


 今度は、少しだけ強かった。


「……」


 ハヤテはスティックを止める。


 スタジオの中は静かだった。


 ドアの向こうにも、誰もいない。

 廊下の電気は、さっき自分で消した。


 受付の人も、もう帰っている。


 ハヤテは笑おうとした。


「古い箱あるある、ってやつ?」


 声が、思ったより小さく聞こえた。


 その時。


 コン。


 音がした。


 ハヤテは動かなかった。


 自分は叩いていない。


 スティックは、両手の中で止まっている。


 もう一度。


 コン。


 スネアの縁を、誰かが叩く音。


 ハヤテはゆっくり顔を上げた。


 ドラムセットの向こう。

 スタジオの暗いガラス。


 そこに、自分が映っていた。


 椅子に座り、スティックを持っている自分。


 でも、少しだけ違う。


 ガラスの中のハヤテは、こちらより先に笑っていた。


「……やめろって」


 冗談みたいに言った。


 ガラスの中の自分は、笑ったまま動かない。


 ハヤテは立ち上がろうとした。


 その瞬間、ガラスの中の自分がスティックを振った。


 コン。


 スネアが鳴る。


 現実のスネアも、同時に鳴った。


 ハヤテの手は動いていない。


 スティックは握ったままだ。


 でも、音だけが鳴った。


 背中の汗が、一気に冷たくなる。


「……そういうの、嫌いなんだけど」


 声に、笑いが残らなかった。


 ガラスの中の自分が、ゆっくりスティックを構える。


 右手。

 左手。


 ハヤテがよくやる癖と同じ動き。


 違うのは、目だった。


 ガラスの中のハヤテは、瞬きをしていない。


 メトロノームが鳴り続けている。


 カッ、カッ、カッ、カッ。


 その音に合わせて、ガラスの中の自分が叩いた。


 タン。


 現実のスネアが鳴る。


 タン。


 タタン。


 ハヤテは動けなかった。


 そのリズムを知っていた。


 さっきまで、自分が叩いていた曲の入り。


 けれど、少し違う。


 一拍、多い。


 余計な一打が、最後についてくる。


 タン。

 タタン。

 タン。


 コン。


 最後だけ、縁を叩く。


 その一打が、異様に耳に残った。


 叩き返すな。


 はっきり分かった。


 返したら駄目だ。


 同じリズムを返したら、向こうに繋がる。


 ハヤテはゆっくり、スティックを床に置こうとした。


 その時、ガラスの中の自分が笑った。


 口だけが、大きく動く。


 音は聞こえない。


 けれど、何を言っているのか分かった。


 次、お前。


 メトロノームが止まった。


 スタジオの音が、全部消える。


 エアコンの音も。

 蛍光灯の小さな唸りも。

 自分の呼吸も。


 何も聞こえない。


 静かすぎて、耳の奥が痛い。


 ガラスの中のハヤテが、もう一度リズムを叩く。


 タン。

 タタン。

 タン。


 コン。


 最後の一打で、現実のスネアが揺れた。


 ハヤテは、自分の手が震えていることに気づいた。


 怖い。


 はっきり、そう思った。


 幽霊を見たからではない。

 知らない音が鳴ったからでもない。


 自分のリズムで、自分ではないものがこちらを呼んでいる。


 ガラスの中の自分が、スティックをこちらへ向ける。


 叩け。


 そう言っている。


 ハヤテは息を吸った。


 指先に力を入れる。


 スティックを握る。


 叩き返したら駄目だ。


 同じリズムは駄目だ。


 なら。


 ハヤテは、スネアを叩かなかった。


 右足を動かした。


 ドン。


 キックが鳴る。


 低い音が、床を揺らした。


 ガラスの中の自分の笑顔が、消えた。


 もう一度。


 ドン。


 今度は左手でハイハットを閉じる。


 チッ。


 右手でシンバル。


 ジャッ。


 スネアの縁には触れない。


 あのリズムを返さない。


 ハヤテは、まったく別のビートを叩いた。


 速く。

 強く。

 乱暴に。


 いつもの曲ではない。


 練習でもない。


 ただ、向こうから来た音を塗り潰すための音。


 キックが床を押す。

 シンバルが耳を裂く。

 ハイハットが細かく刻む。


 ガラスが震える。


 映っている自分の輪郭が、少しずつ歪んでいく。


 口が動く。


 違う。


 違う。


 違う。


「知るかよ」


 ハヤテは叩き続けた。


「俺のドラムだ」


 最後に、クラッシュを強く叩いた。


 音が爆ぜる。


 その瞬間、スタジオの電気が一度だけ落ちた。


 真っ暗になる。


 何も見えない。


 音の余韻だけが、暗闇の中に残った。


 数秒後、蛍光灯が戻った。


 エアコンの音も戻る。

 メトロノームのランプも、いつものように点滅している。


 ガラスには、ハヤテだけが映っていた。


 汗で前髪が額に張りついている。

 肩で息をしている。

 顔色が悪い。


 でも、自分だった。


 ハヤテはしばらく動けなかった。


 やがて、ゆっくりスティックを下ろす。


「……帰ろ」


 声が少し掠れていた。


 片付けをする間、ガラスの方は見なかった。


 ドラムの金具を閉じる音が、やけに大きい。

 スティックケースのファスナーを閉める音まで、耳に残る。


 電気を消し、スタジオを出る。


 廊下は暗かった。


 非常灯の緑だけが、床に薄く伸びている。


 鍵を閉めようとした時、スタジオの中から音がした。


 コン。


 ハヤテの手が止まる。


 ドアの向こうは暗い。


 もう一度。


 コン。


 そして。


 コン。


 三つ。


 そこで止まる。


 ハヤテは振り向かなかった。


 鍵を閉める。


 廊下を歩く。


 足音が、ひとつ遅れてついてくる。


 出口の前で、スマホが震えた。


 コウタからだった。


『まだスタジオ?』


 ハヤテは画面を見たまま、少しだけ笑った。


 いつもの調子で返そうとして、指が止まる。


 やめた。


 短く打つ。


『もう出る』


 少し迷って、もう一行だけ足した。


『明日、スネアの縁は叩くな』


 送信してから、ハヤテは外に出た。


 夏の夜の空気が、まとわりつくように暑い。


 建物の中から、最後に一度だけ音がした。


 コン。


 今度は、四つ目だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ