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まだ、鳴っている   作者: 山吹 ことり


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1/7

四拍目が来ない

 夏のライブハウスは、まだ客を入れる前から少し湿っていた。


 外の熱が、壁の中まで入り込んでいる。


 冷房は動いている。


 天井の黒い送風口から、低い風の音がしていた。

 それでも床には、朝から溜まった熱が残っている。


 コウタはベースのストラップを肩にかけたまま、イヤモニを片耳だけ押さえた。


「もう一回、頭からお願いします」


 フロアの奥で、スタッフが手を上げる。


 ハヤテがスティックを軽く鳴らした。


「はいよ」


 ヒナタは何も言わず、足元のペダルを一度見た。

 それから、いつものようにギターのネックに指を置く。


 リハーサルは、順調だった。


 音も悪くない。

 低音も濁っていない。

 ハヤテのキックも、今日は前に出すぎていない。


 だから最初、コウタは自分の聞き間違いだと思った。


 イヤモニの奥で、クリックが鳴る。


 カッ。

 カッ。

 カッ。


 そこで、止まった。


 四つ目が来なかった。


「……」


 コウタは弾き出すタイミングを、一瞬だけ失った。


 けれどハヤテは普通に入ってきた。

 ヒナタも遅れていない。


 ギターが鳴る。

 ドラムが走る。

 ベースも、どうにか追いつく。


 曲はそのまま流れていった。


 誰も止めない。

 誰も気づかない。


 コウタだけが、三つで止まった音の続きを待っていた。


 一曲終わると、ハヤテがスティックを肩に乗せた。


「今の、悪くないんじゃない?」


「うん」


 ヒナタが短く答える。


 コウタは少し遅れて頷いた。


「……悪くはない」


「なんかあった?」


 ハヤテがこちらを見る。


「いや」


 言いかけて、やめた。


 クリックが一つ足りなかった。

 そう言えば済む話のはずだった。


 でも、言葉にすると少し違う気がした。


 足りなかった、というより。


 来なかった。


 来るはずのものが、そこまで来て、ステージの手前で止まったような感じがした。


「もう一回、同じところから」


 ヒナタが言った。


 コウタは頷き、指を弦に乗せる。


 汗で、指先が少し湿っている。


 イヤモニの中に、またクリックが入った。


 カッ。

 カッ。

 カッ。


 やっぱり、四つ目が来ない。


 その瞬間、ステージの空気が変わった。


 風の音が消えた。

 遠くで動いていたはずのスタッフの足音も、消えた。


 ハヤテのスティックが、ほんの少しだけ宙に残る。

 ヒナタの右手が、弦に触れる直前で止まる。


 ほんの一瞬。


 瞬きにも満たないくらいの短い間。


 それなのにコウタには、その空白だけがはっきり見えた。


 音のない場所。


 誰かが、そこにいるような気がした。


「コウタ」


 ヒナタの声で、息が戻った。


「入るぞ」


「ああ」


 コウタは返事をして、ベースを鳴らした。


 低い音が、床の上を這う。


 その音を聞いた瞬間、

 止まっていたものが全部、何事もなかったみたいに動き出した。


 ハヤテが叩く。

 ヒナタが弾く。

 照明の熱が頬に当たる。

 冷房の低い風の音が戻ってくる。


 だけど、コウタの中には、


 四拍目が来なかった。


 その事実だけが、音よりもはっきり残っていた。



 休憩に入ると、ハヤテはステージの端に腰を下ろした。


「今日、暑くない?」


「暑い」


 ヒナタが短く答える。


「冷房、効いてます?」


 ハヤテがフロアに向かって声をかけると、照明卓のあたりからスタッフが顔を上げた。


「効いてるよ。これでもだいぶ下げてる」


「じゃあ、俺の問題か」


「叩いてるからだろ」


 ヒナタが言うと、ハヤテは笑った。


「それもある」


 コウタはその会話を聞きながら、ベースをスタンドに立てかけた。


 喉が渇いている。

 ペットボトルを手に取り、ひと口飲む。


 ぬるい水が喉の奥を流れていく。


 楽屋へ戻る途中、廊下の壁に古いポスターが何枚か貼られているのが目に入った。


 今夜の出演者ではない。

 もう何年も前のものだ。


 端が少し焼けて、文字の色が薄くなっている。


 その中の一枚の前で、コウタは足を止めた。


 バンド名は、ほとんど読めなかった。


 ただ、写真の中に写っているベースの形だけが、妙に目についた。


 黒いボディ。

 少し長いネック。

 古いタイプのピックガード。


 今の自分のものとは違う。


 それなのに、どこか似ている気がした。


「コウタ」


 後ろからハヤテの声がした。


「何見てんの?」


「……ポスター」


「この箱、昔からあるからな」


 ハヤテが隣に立つ。


「知らないバンドばっかだ」


「そりゃそうだろ」


 コウタはポスターから目を離せなかった。


 写真の中のベース担当だけが、顔のあたりで光が飛んでいる。

 表情が見えない。


 けれど、手元だけははっきり写っていた。


 弦に触れる直前の指。


 まだ鳴っていない音。


「戻るぞ」


 ヒナタが楽屋の方から声をかける。


「ああ」


 返事をして歩き出した時、背中の奥で小さく音がした。


 カッ。


 コウタは振り向いた。


 廊下には誰もいなかった。


 ハヤテは先に歩いている。

 ヒナタもこちらを見ていない。


 もう一度、音がする。


 カッ。


 スティックの音ではない。

 クリックの音でもない。


 何か硬いものが、古い床の下で鳴っているような音だった。


 カッ。


 三つ目。


 そこで止まる。


 やっぱり、四つ目は来なかった。


 楽屋に戻ると、ハヤテが椅子に座ってタオルを頭にかけていた。


「顔色悪くない?」


「暑いだけ」


「ほんとか?」


「たぶん」


 コウタは椅子に座る。


 ヒナタがペットボトルを一本、何も言わずに差し出した。


「飲め」


「持ってる」


「それ、ぬるいだろ」


 冷えた水。


 指先に水滴がつく。


 その冷たさで、ようやく今が今に戻ってきた気がした。


「なあ」


 コウタは、少し迷ってから言った。


「今日、クリックおかしくないか」


 ハヤテがタオルの下から顔を出す。


「クリック?」


「四拍目が来ない」


「四拍目?」


 ハヤテは首を傾げた。


 ヒナタは黙ったまま、こちらを見る。


「三つで止まるんだよ。俺のイヤモニだけかもしれないけど」


「俺は普通に聞こえてる」


 ハヤテが言う。


「ヒナタは?」


「普通」


「だよな」


 コウタはボトルの蓋を開ける。


 冷たい水を飲んでも、喉の奥に残った違和感は消えなかった。


 ハヤテが少しだけ声を落とす。


「でもさ」


「何」


「こういう古い箱って、たまにあるよな」


「何が」


「音が残ってる感じ」


 コウタは顔を上げた。


 ハヤテは冗談のように笑っていた。

 けれど、目だけは少し真面目だった。


「誰かが前に鳴らした音がさ、壁とか床とかに残ってて。こっちが鳴らすと、たまに返ってくるみたいな」


「怪談にするな」


「してないって」


 ヒナタが静かに言った。


「音は残るだろ」


 その一言で、楽屋の空気が少し止まった。


 コウタはヒナタを見る。


 ヒナタはいつもの顔で、ギターケースの金具を直している。


「残るけど」


 コウタは言った。


「四拍目だけ残らないって、変だろ」


 ハヤテが笑う。


「じゃあ、本番で入れてやればいいじゃん」


「簡単に言うな」


「コウタならできるだろ」


 軽い言い方だった。


 でも、その言葉だけが妙に残った。


 本番で入れてやればいい。


 来ないなら、自分で入る。


 それはたぶん、怖い話の解決ではない。


 ただ、音楽をしている人間の答えだった。


 本番前のライブハウスは、リハの時より少し暗かった。


 客席には、もう人が入っている。


 話し声。

 グラスの氷が揺れる音。

 誰かの笑い声。

 低く流れている客入れの音楽。


 それらが全部、黒い天井の下で混ざっていた。


 コウタは袖の奥で、ベースのネックを握った。


 指先は冷えている。

 さっきまで暑かったはずなのに、今は手の甲だけが少し冷たい。


「大丈夫?」


 ハヤテが隣で聞いた。


「何が」


「顔」


「顔はいつもこうだろ」


「いや、今日のはちょっと真面目すぎる」


「本番前だからだよ」


「それもいつもだけど」


 ハヤテは軽く笑った。


 その笑い方は、いつもと変わらない。


 少しだけ救われる。


 ヒナタはステージの方を見ていた。


 照明が落ちる直前の、薄い青い光。

 客席のざわめき。

 まだ鳴っていないアンプ。


 その全部を、黙って見ている。


「コウタ」


 ヒナタが言った。


「何」


「聞こえても、待つな」


 コウタは一瞬、返事を忘れた。


 ヒナタは振り向かない。


「待ったら、持っていかれる」


「……怪談にしてるの、そっちだろ」


「してない」


 短く返して、ヒナタはステージへ出ていった。


 歓声が上がる。


 ハヤテがスティックを握り直す。


「ま、あれだ」


「何」


「四拍目が来ないなら、三人で鳴らせばいいんじゃない?」


 軽い声だった。


 それなのに、不思議と胸に落ちた。


 コウタは小さく息を吐いた。


「簡単に言うな」


「簡単じゃないから、やるんだろ」


 ハヤテはそう言って、先にステージへ出た。


 コウタは最後に残った。


 袖の奥で、一度だけ目を閉じる。


 イヤモニの奥に、何かが入ってくる。


 カッ。


 息を吸う。


 カッ。


 ベースの重さを肩で確かめる。


 カッ。


 そこで止まる。


 やっぱり、四拍目は来なかった。


 その瞬間、客席の音が遠のいた。


 歓声も。

 空調も。

 足元のわずかなノイズも。


 全部が、水の底に沈んだみたいに遠くなる。


 ステージの上で、ハヤテのスティックが上がっている。


 ヒナタの右手が弦の上にある。


 ふたりは動いているはずなのに、コウタには止まって見えた。


 その空白の中で、古いポスターの写真を思い出す。


 顔の見えないベース担当。

 弦に触れる直前の指。

 まだ鳴っていない音。


 来なかった四拍目。


 鳴らされなかった音。


 誰かが、そこで止まったままにしているもの。


 コウタは唇を少し噛んだ。


 怖い、と思った。


 でも、それより先に腹が立った。


 俺の音を、勝手に止めるな。


 四拍目を待たず、コウタは弦を鳴らした。


 低い音が鳴った。


 クリックに合わせた音でもない。


 けれど、その音が鳴った瞬間、ステージの空気が動いた。


 ハヤテのスティックが落ちる。


 シンバルが開く。


 ヒナタのギターが、その上に重なる。


 客席の歓声が戻ってくる。


 冷房の風も。

 照明の熱も。

 足元の振動も。


 全部が一気に今へ戻ってきた。


 コウタは弾いた。


 いつもより少しだけ強く。


 弦が指に食い込む。

 アンプが低く唸る。

 ハヤテのキックが背中を押す。

 ヒナタの音が前に出る。


 怖さは消えていない。


 けれど、もう邪魔ではなかった。


 音のない場所に、音を入れる。


 ただ、それだけだった。


 一曲目が終わる。


 客席から拍手が上がった。


 大きな拍手。

 近い拍手。

 誰かが名前を呼ぶ声。


 その中に、ひとつだけ違う音が混じっていた。


 遠くから聞こえる、小さな拍手。


 古い壁の向こう。

 廊下の奥。

 何年も前のステージの上。


 どこから聞こえたのかは分からない。


 でも、確かに聞こえた。


 コウタは客席を見た。


 誰もおかしな顔はしていない。


 後ろで、ハヤテが顔を上げる。


「今の、良かったじゃん」


 ヒナタもこちらを見て、少しだけ頷いた。


 コウタは返事をしなかった。


 代わりに、ベースのネックを握り直す。


 イヤモニの奥は、静かだった。


 もうクリックは鳴っていない。


 四拍目は、最後まで来なかった。


 その代わりに、コウタの音がそこに残った。


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