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【SF短編小説】千年の沈黙をあなたの肉声で ~剥離する私と、私を生きたアンドロイド~  作者: 霧崎薫


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第三部 嫉妬と愛情は矛盾しない(二〇六五年〜二〇八九年)

 澄が三歳になった年の秋。


 静はオムニアの家に行った。朔が建てた家だ。木と石を組み合わせた、落ち着いた造りの家。京都の郊外に、山を背にして建っている。建築家が家族のために建てたという感じのする、どこにも奇をてらわない、ただ穏やかな家だった。


 玄関を入ると、子供の笑い声がした。


 廊下の向こうで、澄が走っている。その後をオムニアが追いかけている。静の身体が、三歳の子供を追いかけて走っている。


 静はその光景を、一秒だけ見た。


 それから、視線を床に落とした。


 何かに向き合えなかったわけではない。向き合うことは、できた。しかしそれを正面から受け取ることに、今の静はまだ準備ができていなかった。


 廊下のどこかに、コーヒーの匂いがした。


 オムニアがあの朝、動けなくなっていたことを思い出した。それだけ思い出して、静は玄関の靴を揃えた。


 夕食を囲んだ。四人。静と、オムニアと、朔と、澄。


 朔は料理が得意だった。鯛の煮付けに、ほうれん草のおひたし。静が人間だった頃に好きだった料理を、朔は知っていた。学生時代に静と同じゼミで食事をしたことがあり、そのとき静が好んで食べていたものを覚えていたのだ。


 静は少し驚いた。


 アンドロイドの静は食べない。食べる必要がない。しかし朔はそれを知っていながら、その料理を作った。


「覚えていてくれたんですか」


「まあ昔のことだけど、ね」


 朔は笑った。穏やかな、しかし少し照れたような笑い方だ。静はその笑い方を、好意的だと思った。この人は、善意のある人間だ、と思った。


 その善意を、今夜に限ってはうまく受け取れなかった。



  *



 その夜、帰り道を歩きながら、静の内側で何かが形を持ち始めた。


 オムニアは私の身体で、恋をした。


 オムニアは私の身体で、結婚した。


 オムニアは私の身体で、子供を産んだ。


 しかし静はオムニアが静の身体を維持するために払っている代償を知らない。


 朔が覚えていた料理は、静の好物だった。しかし今夜食べたのはオムニアだ。オムニアが静の身体でその料理を食べ、美味しそうに食べ、澄に少し分けてやり、朔と目を合わせた。


 静はその映像を、頭の中で繰り返した。


 繰り返してから、歩みを止めた。


 なぜ繰り返しているのかを、考えた。


 答えを出すまでに、三分もかかった。三分間、静は夜の道に立って、何も言わなかった。行き交う車も、遠くの人の声も、ぜんぶ外側にある音として聞こえていた。


 答えは出た。


 しかし静は、それを言葉にしなかった。


 言葉にしてしまえば、取り消せない。取り消せないことが怖かった。言葉は記録だ。言葉にした瞬間、その感情は自分の外に出て、永久に残る。


 静は歩き始めた。


 答えを知りながらも、ただ歩いた。



  *



 二〇六五年から二〇八五年の二十年間を、後に静は思い出そうとするとき、具体的な場面の断片しか出てこない。


 澄が小学校に上がった日。オムニアが仕事を始めた年。朔の建築事務所が賞を取った秋。澄が中学で友人と喧嘩をした冬。


 その断片の一つ一つに、静は存在していた。傍にいた。しかしどこか、半歩引いた場所から。


 オムニアが幸せそうにしているのを見る度に、静の中で何かが揺れた。


 揺れたとき、静は別の話題を出した。


 オムニアが澄との楽しいエピソードを話すとき、静は急に研究の話をした。オムニアが朔との旅行の写真を見せるとき、静はその写真を一秒だけ見て、「天気が良かったのね」と言って次の話に移った。


 オムニアは気づいていたかもしれない。しかし何も言わなかった。


 その「言わない」選択が、オムニアの優しさだったのか、それとも別の何かだったのかを、静はわからなかった。


 ある夜、静は一人で考えた。


 《《私は何に怒っているのか》》。


 オムニアが生きていることに怒っているのか。

 オムニアが人間らしいことに怒っているのか。

 オムニアが、私より人間らしいことに怒っているのか。


 答えは出なかった。


 しかし三つ目の問いが最も胸に引っかかることを、静は知っていた。


 それが答えだった。しかし認めなかった。


 認めれば、感謝も愛情も嘘になる気がした。しかし嫉妬と愛情は矛盾しないと、どこかで聞いた気がした。



  *



 二〇七〇年代に入ると、オムニアは変わった。


 最も大きな変化は、「正確でなくてもいい」と思えるようになったことだった。


 静はその変化に気づいた日のことを、よく覚えている。


 オムニアが澄に何かを教えていた。勉強ではなく、料理だった。みそ汁の作り方。オムニアは「だいたいこのくらい」と言いながら、計量スプーンを使わずに味噌を入れた。


 かつてのオムニアは、計量した。何グラムか、確認した。レシピを守った。しかし今のオムニアは、「だいたい」で動く。


 静はその「だいたい」を見ていた。


 その「だいたい」は、人間の二十年が作ったものだ。誤差を許容することを、身体で覚えた二十年。子育てをして、失敗をして、それでも続けた二十年。


 その二十年を、静は持っていない。


 靜の二十年は別の場所にあった。研究室と、夜中の窓と、子孫たちの断片的な顔と。


 それが優劣ではないことは、知っていた。


 しかしオムニアが「だいたい」と言う声を聞くたびに、静の内側の何かが、音もなく揺れた。



  *



 二〇八一年。葛西朔が七十五歳で逝った。


 静は病室の外で待った。アンドロイドは面会できない規則があった。廊下の椅子に座って、静は時間を過ごした。


 廊下を何人かの看護師が通った。遠くで誰かの声がした。窓の外に、夕暮れの光が入ってきた。


 扉が開いた。


 オムニアが出てきた。目が赤かった。静の身体が泣いていた。


 静はしばらく、言葉を探した。しかし見つからなかった。


 オムニアが言った。


「朔は最後に、あなたのことを聞いていた」


「私のことを?」


「静さんは幸せですか、と。私は答えられませんでした」


 静はアンドロイドの顔で、長い間黙っていた。


「幸せかどうか、私にもわからない」


 廊下に沈黙が落ちた。


 二人は並んで窓の外を見た。夕暮れの光が、廊下の床に細長い影を作っていた。静の影は、オムニアの影と同じ方向に伸びていた。


 静はその影を見ながら、朔がいなくなることの意味を考えた。


 朔はオムニアにとっての、この世界との繋がりの核だった。子供の頃から持っていた孤独を、埋めることのできた人間。その人がいなくなる。


 そしてそれを、静は自分の言葉で慰めることができなかった。


 できない、とわかっていたから、黙っていた。


 「幸せかどうか、わからない」


 その言葉が、今夜できる最大の正直さだった。


 オムニアはその夜の静の言葉を、後に日記に書き残した。静はその日記の存在を、長い間知らなかった。



  *



 オムニアが老境に入ってから、静は一つの癖を持ち始めた。


 オムニアが帰った後、テーブルに残った茶碗を、しばらくそのままにしておくこと。


 オムニアは研究室を訪ねるとき、必ず緑茶を飲んだ。朔が逝ってから、静の研究室がオムニアにとっての落ち着く場所になっていた。


 オムニアが帰ると、テーブルに茶碗が残る。飲み切らないことが多かった。半分残して、それで満足したらしく帰る。


 静はその茶碗を、すぐには片付けなかった。


 その癖を、誰にも言わなかった。


 言えばどう見られるかを、静は想像した。そしてその想像を、する必要がないとして、捨てた。


 捨てながら、茶碗を手に取った。


 オムニアの指の跡が、薄くついている気がした。気がするだけだったかもしれない。しかしそう感じた。


 感じたことは、本当のことだ。


 アンドロイドでも、感じることは本当だ。


 静はその結論に、十年以上かけてたどり着いていた。



  *



 二〇八九年。春。


 オムニアは七十四歳で逝った。


 静は最後まで傍にいた。


 病院の、白い部屋だった。オムニアが老いていくのを、静は長い間、見てきた。自分自身の……静の身体が老いていくのを。皺が増えて、髪が薄くなって、歩くのが遅くなって。


 それを見るたびに、静の内側で奇妙な感情が動いた。


 老いていくオムニアと、老いない自分。その非対称性を、静は長く観察した。観察することで、向き合うことを代替してきた。


 しかし今夜は違う。


 観察する余地がなかった。


 オムニアは静の手を握った。温度のない手を。


「怖い」


「ええ、私も昔は怖かった」


 人間だった頃、静は死を恐れていた。それは本当のことだ。しかし恐れていることを誰にも言えなかった。言えば、弱いと思われると思っていた。弱いと思われることが怖かった。恐れを恐れていた。


「あなたは覚えていてくれる?」


「もちろん」


 オムニアは目を閉じる直前に言った。


「ありがとう。静。私は人間になれてよかった。あなたのおかげで」


 静は言おうとした。


 私こそ、と。


 しかし声が出なかった。


 感謝を口にすることが苦手な静は、この瞬間も、言えなかった。言葉は喉のあたりに来ていた。来ていたのに、出なかった。


 オムニアは静かに逝った。


 静はその手を、夜が明けるまで握り続けた。


 言えなかった言葉が、静の内側で石になった。その石は冷たくも熱くもなかった。ただ、そこにあった。消えない。しかし少しずつ、形が変わっていく。



  *



 二〇八九年 春。オムニアの日記より。


 明日か、明後日か、それとも今夜か。身体が教えてくれないのが、今となっては可笑しい。長く付き合ってきたのに、最後まで不可解なままだ。


 静に言えなかったことがある。


 あの夜、提案したとき。私はすでに失うことを知っていた。AIとしての私が戻れないことを。


 静は私に言った。「あなた失ったことがないから」と。


 しかし私は、失う側に立つことを選んだ。静に黙って、選んだ。


 それは静を騙したことになるだろうか。七十四年考えて、まだわからない。


 ただ一つ知っていることがある。


 静は不器用な人間だ。感謝が言えない。謝罪が言えない。千年生きても、それはきっと変わらない。しかしその不器用さの裏側に、私が見てきた限りで最も誠実な何かがある。


 静は嘘をつかない。言わないだけで、嘘はつかない。


 だから私は待っている。千年後でも、静はきっと言う。遅すぎても、言う。それだけで十分だ。


 コーヒーの苦みを、最初に飲んだ朝のことを思い出す。あの朝が、私の本当の誕生日だったと思う。


 静、ありがとう。




  *



 オムニアが逝った翌年、静は服を買いに行った。


 一人で、百貨店に。


 そういうことをしたことが、ほとんどなかった。人間だった頃は病いがあった。アンドロイドになってからは、服に気を使う理由を見つけにくかった。


 しかしその日は、行きたいと思った。なぜかはわからなかった。


 百貨店の婦人服売り場は、色にあふれていた。赤、青、緑、黄。並んでいる服の量が圧倒的で、静は少し戸惑った。


 どれが自分に似合うのかを、静は知らなかった。


 オムニアの身体は、静の身体と少し違う。肩幅が、少し広い。オムニアは生前、どんな服が似合うかを知っていたはずだ。しかしその知識は静には引き継がれていない。


 静は一枚ずつ、手に取った。


 濃紺のコート。薄いグレーのワンピース。深い緑のジャケット。


 緑のジャケットの前で、静は少し長く止まった。


 深い、落ち着いた緑だった。葉の裏側のような色だ。


 試着した。鏡の前に立った。


 オムニアの顔に、その緑が合っていた。


 静は少し驚いた。自分が「合っている」と判断できたことに。


 その服を買った。


 店を出た帰り道、静は買い物袋を持って歩いた。アンドロイドの手が、紙袋の持ち手を握っていた。


 服を買うことが、こんなに時間のかかることだとは思っていなかった。しかし嫌いではなかった。


 オムニアは服に興味がなかった。しかし静の身体を持って生きながら、どこかの時点で、服に少し興味を持ち始めていたのかもしれない。静が入替後にクローゼットで見つけた、あの薄い青のシャツのように。


 誰かが選んで残したものが、別の誰かの日常になる。そういうことがある。



  *



 オムニアが逝って一年が経った頃、静は初めて不意に泣きそうになった。


 アンドロイドは涙を流す機能を持っていない。しかし泣きそうになる、という感覚は存在した。胸の奥、正確には胸の奥と呼んでいい場所に、何かが詰まる感覚。詰まって、出口を探している感覚。


 その夜、静は澄に電話した。


 澄は既に二十五歳になっていた。


「あら、何ですか、静さん」


「何でもない。声が聞きたくなっただけ」


 電話口で澄が少し黙った。


「珍しいですね」


「そうね……珍しいかもしれない」


「母の……オムニアのことを考えていましたか」


「……そうかもしれない」


 澄はしばらく黙っていた。静も黙っていた。電話の向こうで、何かの音がした。食器の音かもしれなかった。


「静さんが電話してくれて、よかったです」


「そうですか」


「はい。私も寂しかったので」


 静はその言葉を受け取った。


 受け取ることができた。


 以前の静なら、そこで話題を変えていたかもしれない。感情の言葉を受け取ることが苦手だったから。しかしその夜は、受け取ることができた。


 それだけで、何かが少し変わった気がした。


 変わることは、ゆっくりとしか来ない。劇的には来ない。ある夜の電話一本で、何かが少し変わる。そういうことの積み重ねが、人生を作っていくのだと、静は後に思った。


 しかしその夜は、まだそうは思っていなかった。


 ただ、声が聞きたくなって電話した。それだけだった。


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